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・・・寒い。
そんな愚痴を洩らす余裕など無いのだが、些事と言うには、余りにもこの場は寒すぎた。冷気は四肢の自由を奪い、夜空を渡る小さな影は、今にも真綿の如き雪の中に落ち込みそうになる。
けれども、ここで力尽きては足跡が残ってしまう。今宵に限って雪一つちらつかない空は、満天の星を宿して輝いているのだ。
羽ばたきを一つ。
もう一つ。
氷の結晶を抱き、風すら輝く夜。焼け付く様なそれを必死に掴まえると、身体は危うく墜落を免れ、再び黒々とした樹木の梢ほどに浮き上がる。換わりに、もっと凍えてしまったけれども。「もう持たないわ」と独りごち、星明かりを頼りに必死に飛びながら隠れ家になりそうな場所を探す。麦藁色の髮も睫毛も凍り付き、手足の感覚はとうに無かった。華奢な身体には不釣り合いな程確りとした羽根ですら、本当に動いているのか判らない。ただ翼の主は、未だ足が地に着かぬ事を飛翔の証だと信じて進む。
もっと。
もっと遠くへ飛ばないと。
それは、一人のフェザーフォルク。取り返しの付かない罪を負った事に気付き、傷付いた憐れな少女だった。純白だった筈の長衣は血に塗れて氷の枷となり、頬には流れ落ちることの無い涙が凍てついた光を放つ。
「マーヴェルさん、大丈夫ですか?! 気を付けて下さい、はぐれたらお終いですからね!」
吹雪で真っ白な視界の中に、ラティクスの怒鳴り声が聞こえた。皆、旅荷を載せた橇を囲む様にして陣を組み、前進している。彼女はやや遅れをとってしまった様だった。
慌てて歩を進め、そしてまた、雪の中に幻影を求める。
白い世界が映し出すのは、取り返しのつかない過去の記憶だと知っているのに。
積み重なった瓦礫の向こうへ最後の力を振り絞って羽ばたくと、少女は力尽きて深い雪の上へと落ちた。そうして暫く動かなかったが、痛く冷たい感触に長くは耐えられず、やっとの思いで立ち上がる。雪を振り払う気力も無く茫と見回すと、雪明かりに照らされる沢山の建物が見えた。奇妙な事に、どれもが崩れ雪に埋もれて人の気配は皆無であった。
何時魔物が出るとも判らない廃虚であったが、不思議と少女は怖くなかった。今は追手の方が気掛かりであったし、何よりも彼女は、自分自身の罪に怯えていたからだ。重要なのは、この廃虚がシルヴァラント城下から遠く離れている事と、そして誰も居ない事。今は身を隠すことしか頭になく、だから彼女は躊躇わず破壊を免れた建物を探し始める。
周囲はしんと静まり返り、人はおろか魔物一匹いない。それは、彼女をとても安心させた。
冷えきった身体を引き摺るようにして、小さな祠に倒れ込んだのは偶然だろうか。(そもそも、この廃虚へと迷い込んだのは何故だったのか。それは後に、彼女自身が幾度も疑問に思った事であった。準備も無しに冬のシルヴァラントをうろつけば、その晩の内に凍え死んで当然なのだ。)
ともかく祠の頑丈な石の壁と屋根は風を防いでくれた。けれども火を起こす手段を持たない少女の身体を守る程ではない。少女は、震えの収まらぬ身を推して何か被る物でもないかと辺りを調べる。すると幸運なことに、祭壇の後ろには朽ちた木の扉がぶら下がり、地下へと続く通路を露出させていた。
覗き込むと、内からは地中特有の湿って温かい風が吹き上げて来てくる。迷わず駆け込んだ先、地中深くには紋章術とおぼしき篝火が揺れていた。それは本物の炎には遠く及ばなかったが、僅かな熱を持っていた。
手足を温めると・・・少しだけ元気が湧いてきた。だが、同時に絶望もまた蘇ってくる。
少女の胸に去来するのは、意思を束縛されていたとはいえ、幾人もを殺めてきた事実。それが唐突に自我を取り戻したのは、最後に刃を向けた男の吐いた今わの際の呪詛の所為か。「エリス、お前の兄も同じなのか?」確か、男は父の知己であったシルヴァラントの要人であった。そこにつけ込んで少女を差し向けたのは、憎き真紅の盾の仲間である。
けれど、手を下したのは自分だ。
少女は込み上げる涙を拭うと、未だ青い血糊のこびりついた短剣を取り出し喉元に当てる。一気に引こうとして・・・出来なかった。
握り締めた手を力無く下ろして、少女は更に通路の奥へと進んだ。何かを探していた訳ではない。じっとしているのが怖かっただけである。真っ直ぐな通路は緩い下り坂で、地面は均されており、歩くのは楽だった。
どれ程歩いたのか、やがて広い場所に出た。殺風景な洞窟そのものといった所で、燭台だけは多く配されていた。
其処に一つ、巨大な氷の柱がぽつんと建っていたのだった。正確には、それは地中から生えているのかも知れない。少女は導かれる様に、燭台の光に揺れる場所へと歩み寄った。
氷の中には、風変わりな衣装に身を包む一人の美しい女性が閉じ込められていた。道端でふと足を止め満ち足りた日々を神に感謝した様な、穏やかで今にも動き出しそうな瞬間と共に。膚は白々としていたが、無気味さや恐ろしさはない。
氷面に刻まれた文字が微かに光る。
秀なる紋章術師にして 稀なる晶術師 アザリアに
無比の殉凍者/マーヴェル=フローズンの称号を捧げる
天井から滴り落ちる地下水が凍って埋められた言葉は、殆ど読むことが出来なかった。だが、共に刻印された独特の紋章に、ここは旧異種族の遺跡だったのかと少女は漸く気付くに至る。彼女は紋章術に長けてはいなかったが、かつて宮廷紋章術師であった父の蔵書を盗み読んで幾許かの知識を得てはいたのだ。勿論、行儀よい彼女の兄はそんな事をしなかったけれども。
特に旧い伝承の類が好きだった少女は、直ぐに氷柱が単なる墓標でない事を看破した。強力な術者の死を惜しんだ旧異種族の誰かが、いつの日か彼女の力を蘇らせようと、その身体を封じたのだろう。そう考える。
少女は懸命に、昔の・・・幸せだった頃の記憶を探る。蘇ることを前提として封じられた身体を操る方法は二つあった筈だ。本来の身体の持ち主の魂を戻すか、他者が《魂の契約》を結び己の魂を強制的に身体に定着させるか。いずれにしても蘇った身体は生者と異なり、時の流れから外れた生ける屍と化す・・・確か、そうだったと少女は思い出す。
もし、旧異種族の力を手に入れられたら。それは復讐の術となる。そう考えて、少女は身を震わせた。他者の力を手に入れる、というのは自らの存在を抹殺することに他ならない。代償は余りにも大き過ぎた。
だが、どうせ捨ててもいい命なら。
吹雪の中、マーヴェルは自嘲した。結局自分にはムーア人の力を完全に引き出すことが出来ず、真紅の盾を前にして手も足も出なかった。挙げ句、殺されたとばかり思っていた兄との再会。それは死者の眠りを妨げた己への罰なのだろうか。
そんな気がしてならなかった。
そしてこれは彼女、エリス・マーヴェル=フローズンの全く与り知らぬ事であったが。
旧異種族がかつて捧げた言葉は、次の様に続いていたのだった。
花でなく唄でなく 唯深き 静寂と尊敬を手向ける
別たれし鍵なる魂の還る日まで 誰が其方の夢無き眠りを妨げようか
やがて器の動ずる時に 誰がその魂の平安を願わぬだろうか
空を被う真白い雲は晴れる気配が無かったが、風も雪も流石に出尽したのか勢いを弱め、旅人達はほっと息を吐いた。
足元の雪は町中と違って積もるに任せられている為、場所によっては胸の深さ程もある。下の方の雪はすっかり固く氷の様になっているので、実際の雪の深さは人の背丈以上になるのかもしれない。
「こんな国に住んでいられるなんて、シルヴァラントの人達ってすごいよね」
血の気の引いた様に見えるミリーが、かじかむ指の痛みに辟易して分厚い手袋を外し、襟元に当てて温めている。温暖な地方で生まれ育った彼女にとって、この驚異的な寒さは初めてのものであり、それはラティクスにとっても同じことだった。身体を動かしている間はまだいいが、少しでも止まっているとみるみる凍えてくる環境は、正直辛い。何より、雪によって動きが制限されるのがもどかしかった。
本来ならば一日で消化出来る距離に、三日もかかるのである。
ここ数日の悪天候で、シルヴァラント城下から出発した一行が他の旅人に出会う事はなかった。その代わり、凶暴と噂される魔物達に出会う事も少なかったのは、非常に有り難いことではあったのだが。時々出くわす魔物にしても、この行程では紋章術を操る者が多かったのが幸いし、防寒具と足場の悪さに動きを制限される剣士等に代わってロニキス、ヨシュア、そしてマーヴェルの炎や雷、時にはミリーの圧搾大気が、それらを効果的に打ち倒した。
「まだ着かないのかなぁ? この辺りなんでしょ、その《晶術師の壁》っていうのは」
ミリーに促される様に、ラティクスは前方へと目を凝らした。
「確かに凄い崖だけど、何かある様に見えないな」
「え〜っ、無いと困るよ?」
「いや、まぁそうだけど」
こう何処も彼処も白いと、全部同じ景色に見えてしまうのだ。そんな中では、目の前の巨大な崖はかなり特徴的と言えた。これで何も見付からなければ、それは地図が間違っているか、自分達の眼が節穴ということだろう。
「僕が上から見てきましょうか。丁度よく風も弱まっていますから」
ヨシュアが背に張った様になった氷を払いつつそう言って、周囲が声を掛ける間も無く羽音を立てた。雪の中に潜むものを警戒して螺旋を描く様に浮き上がると、瞬く間に崖の半ば程の高さになる。聞こえるだろうか、と思いながらラティクスは声を張り上げた。
「どうだ? ヨシュア!」
「シルヴァラント城で見たのと同じ様には見えますが・・・上の方には何も無いみたいですよ!」
空中に浮かんだヨシュアの返答は芳しくない。アシュレイが尋ねる。
「パージ神殿の様に、岩で塞いあるのではないのか?」
「いいえ、足場が全く無いのでそういうことは無いでしょう。何か別の仕掛けでもあるのか・・・」
顔を曇らせ降りてきたヨシュアの言葉に、アシュレイが溜め息を吐く。
「さもなければ場所が違うか、じゃの。だが地図を見る限り、位置は違っておらん。
慎重に探してみた方がよかろうが、それには少々雪が邪魔かのう?」
「わかりました。私がやりましょう」
「この寒さでは骨じゃぞ。そういえば炎の術は得手だったか?」
「はい。ミリーの御墨付きを貰えましたよ。まぁ法術の方はさっぱりですが・・・」
アシュレイの無理難題にあっさり答えると、ロニキスは火炎系の高等紋章術イラプションを放つ。白く立ちはだかる崖を常より激しい炎が舐めつくし、深く降り積もった氷の結晶を蒸気へと変えた。一瞬にして温まった空気にミリーが顔を綻ばせる。
「ありましたね、入り口」
立ち昇る湯気の中、灰色の岩壁に未だ溶け残る太い凍土の筋が見えた。
ロニキスの紋章術によって念入りに焼かれた土壁はあっさりと崩れ去り、その先に広がる暗闇が姿を現す。常に仄白い雪景色に馴染んだ眼には、ちらと覗いてみたところで中の様子など全く判らない。
「どうですか、ロニキスさん?」
「当たりだ。かなり広いし、只の洞窟じゃない。ヴァンの城の地下に似た感じがするな」
照明を伴って先に入った紋章術師の言葉通りだった。彼に遅れて闇と地中特有の温かく湿った空気に慣れれば、ラティクスにもその空洞とかつて訪った場所の類似が判る。だが其処は、試練の場よりもむしろアストラルの洞窟や、パージ神殿と同じ雰囲気を持つ場所であった。勿論ラティクスはそれを口には出さなかった。ムーア人の手によって作られた場を、ロニキスが知り得る訳が無いのだ。
二人は周囲を念入りに調べて当座の安全を確信すると、外で待つ者達を呼び寄せた。
「ここが、ムーア人の地下迷宮・・・興味がありますね。一体どんな秘密があるんでしょう?」
ヨシュアが場の気配を探る様に眼を軽く閉じる。
「・・・非常に強い魔力を感じます。どうして今まで気付かなかったのか・・・入り口の岩壁には、かなり大掛かりな術が掛けられていた様ですね」
「すっごく楽しみですね! ね、マーヴェルさん」
「え、えぇ・・・そうね・・・」
漸く手の込んだ鍵の秘密が明かされようというのに、マーヴェルは形ばかり頷いただけだった。
「魔物の気配でもするかの?」
「いえ・・・そうじゃありません。ただ、とても暗いので・・・」
マーヴェルは、取り繕うように口早に言うと前方を指す。声の残響具合からは先に大きな空間がある様だったが、其処は暗闇ときている。「ムーア人の遺跡という割には、明りも無いみたいですよ」
「・・・まぁ、そうだな」
パージ神殿のことを思い出してアシュレイは肩を竦めた。
「多分、もう少し行けばそれらしい場所に出るじゃろ」
暫く歩くとその言葉通り、鬼火にも似た青白い灯火が前方に現れた。どうやら枝垂れる鍾乳石や石筍の乱立が、丁度それらの光を隠してしまっていたらしい。近付いてみれば灯火の光は弱いながらも、群れ為す水晶塊や洞窟の其処此処に溜まった地下水に反射して、地下遺跡全体をよく照らしている。
一行は手持ちの照明を落とすと、何処に向かうべきか思案を始めた。
「そういえばラティ、鍵を持っているのはヌシだったか」
「はい、そうですけど?」
「ムーア人の目的は、儂等を徒に迷わせる事では無い筈・・・とすれば、そろそろ鍵は出しておいた方がいいだろう。
鍵が鍵を導くのであれば、何ぞまだ仕掛けでもあるのだろ」
その不思議な鍵は、万が一にも失くさぬ様にとラティクスの懐に仕舞われていた。(意外に彼は几帳面な性格であり、それは仲間達にも良い意味で知られていた)アシュレイに促されるまま取り出す。するとヨシュアが横から声を掛けた。
「アシュレイさんの言う通りかも知れません。鍵と鍵穴の魔力が対になっていて、それがこの迷宮の道標として繋がれているのであれば、道を割り出すのは難しくありません。その鍵を貸して貰えますか? 試してみますから」
ラティクスは心底感嘆した。紋章術とは無縁に見えてその実、感覚的に紋章術で出来る事と出来ない事を押さえているアシュレイには尊敬の念を抱く。そして、実際に紋章術を操ってしまうヨシュアには、これまで何度となく驚かされてきた。ヨシュアに鍵を手渡しながら、彼等を仲間に迎え入れられた幸運を再度確認する。同じ紋章術師のロニキスでも、複雑な術や魔力の流れの読み取りについては未だ理解出来ておらず、ミリーにしても法術という限定分野以外については疎いのだ。《事情を知られたくない》と部外者の介入を拒み続けていれば、彼等の助力無くしては、ラティクス達の旅は何倍にも困難なものになっていただろう。
自分に何が出来ているかと言ったら、魔物を倒すくらいだからな。
それ位はきちんとやらないと、と決意を新たに青年は前方を見据える。
一方、ヨシュアは左の掌に載せた鍵に印を結んだ右の指先を当て、少量の魔力を注ぎ込んだ。それは水晶の中で青白い光として具象化し、やがて鍵の先端部に刻まれた一つの紋章へと集約する。
「マーヴェルさん、この紋章の波動を可視化して貰えますか?」
予想がぴたりと当たって、ヨシュアの声は弾む。マーヴェルは頷くと、その繊手で輝く紋章に触れた。
ふわり、と鍵先に光球が生まれた。そのまま空中をまるで意思を持つ様に移動する。
手を翳したままで、紋章術師は、紋章術師に尋ねた。
「一つで?」
「大丈夫でしょう。見失ったら、また作れば。
さ、皆さん、この光が導いてくれる筈です。追いかけましょう」
「いい腕ですね」にこりと笑って歩き始めた紋章術師の背中に笑い返した紋章術師はしかし、一転して浮遊していく光を悲しそうに見つめる。鍵に触れた時、彼女は悟ったのだった。これから自身が破滅へと導かれていくことを。
導きの光球は道を失うことなく進み続け、一行は黙々とそれに従った。広大な遺跡を下り、上り、時には広い部屋を突っ切って、戻りの目印を付けるロニキスを困らせることもしばしばであったが。
「ここって、まるで隠し通路ですね」
「あぁ。この暗さだ、普通に探していたらまず見付けられない道だろうな」
ロニキスは壁際に立ち並ぶ石杭の一つに、蝋石で手早く道順を印す。ラティクスは彼が先を行く仲間達を見失わない様に、少し先で作業が終るのを待っていた。その道は、何処にでも見られるせり出した壁《面》とも言えぬ岩をぶっ欠いた様になっている場所、そのちょっとした隙間の先に続いている。人ひとり通るのがやっとという広さだ。
ムーア人というのは余程慎重な人々に違いない、とラティクスは思った。わざわざこの様な通路が設けられているのは、予期せぬ侵入者からこの迷宮に隠した《何か》を守る為としか考えられない。念入りに隠された入り口一つとっても、立ち入る者があるとは思えないにもかかわらず。或いは、鍵の謎掛けに答えられない・・・魔道知識の無い者を寄せ付けぬ為の手か。
とすると、先には魔王に対抗出来る強力な紋章術でも眠っているのだろうか。
思索を巡らせていると唐突に広い場所へと抜けた。今までの曲がりくねった道が嘘の様だ。
「あちらです」と、案内役のヨシュアが更に奥を指した。一度、全員が揃っているかを確かめると、今度はラティクスが先頭に立つ。剣の柄に手をかけ、彼等に危害を加えようとする者共に、何時でも渾身の一撃を浴びせ掛けられるよう気を張りつめながら。
その彼が足を止め、背後の仲間を制す。
深い闇と思われていた行く手から、鈍色の照り返しが見られたからだ。だが光球は構う事無く進み続け、次第に先に潜む物を照らし出していく。巨大な鉄の塊と判ったところで、光はそれにぶつかり呆気無く散り解けた。
「きゃっ!」
とミリーが小さな声を上げたのは、彼等を取り囲むが如く青白き燭台が一斉に灯ったからであり、同時にラティクスが叫んだのは金属塊と思っていた眼前の物体が唐突に動き出したからであった。
「下がるんだ!!」
唸りを上げて襲ってきた太い棒の様なものを咄嗟に避け、後でそいつの前足だと知る。灯火があるとはいえ、陽光の下とは比べ物にならぬ視界の悪さに、敵の姿を中々把握できない。もどかしさに歯噛みした時、張り裂けんばかりの音と共に小山程もある甲虫とも機械ともいえぬ姿が浮かび上がった。アシュレイが放った雷鳴剣が金属と反応したか。巨大な眼がぐわ、と開き節足が苦しげに打ち鳴らされる。
撥ね飛ばされたアシュレイに、ミリーが危険を顧みず駆け寄って回復呪文を唱える。間合いが狭く途端に足が振り下ろされるが、それはアシュレイの右手一本と思えぬ剛力で受け止められた。動きが止まった所を逃さずラティクスが一閃し、鋭い爪先を切り落とす。
電撃に弱いと見たロニキスがサンダーボルトを、周囲を照らすことを目的としてヨシュアがレイを放った。
幾ら巨躯を誇ろうとも、この面々にはかなわないと察したのか、そいつは大きさに似合わぬ素早さで後退すると、両眼を不穏に輝かせた。
レイに匹敵する光線が一行に向けて放たれたのはその一瞬の後のことで、不運なことに彼等の殆どはその攻撃を予測していなかった。だからして、マーヴェルの宝珠から解放された冷気の力が瞬時に氷の壁を創出していなければ、幾人かは大怪我を免れなかったであろう。熱をうけた壁の表面は一瞬にして蒸発し、その水蒸気と複雑に入り組んだ氷晶は残りの光線についても悉く分散させ、無効化したのである。
この技に驚いたか、それとも勝ち目無しと思ったのかは定かでないが、敵は座り込んで手足を引っ込めるとそれ以上動かなくなった。
「こいつは、普通の魔物とは違うみたいだな。もう、戦意がないようだ」
通路の中央に居座られていては、そいつを乗り越えるしか先に進む道はないであろう。いや、擦り抜けられる場所があればそれに越した事はないのだが。
「え、でもこの先に行くの? 怖いよ・・・」
「そうですね。無理をせずここは引き返しませんか?」
魔物の巨躯の傍を通るのは流石に嫌なのか、ミリーとマーヴェルが躊躇いがちに顔を見合わせる。
「でも《鍵》の示す場所はこの先だから・・・俺が最初に行ってみて大丈夫か確かめるよ」
「もし攻撃されたら危ないよ」
「その時はミリー、回復よろしくな」
「え、あ、うん」
幸いにも(運悪く?)、彼が赤くなったミリーに気付く事はなかった。さてよくよく目を凝らせば、人ひとりが通るのに十分な隙間くらいはある。ラティクスは、何だかフェルウォームと戦った時を思い出してしまった。あの時もでかぶつを相手に、ドーンやミリーと大苦戦したものだ。
とりあえずは目前のでかぶつに攻撃の意思の無いことを確認しつつ、ゆっくりと狭い通路を通り抜ける。魔物がそれでも反応しないのを再度確かめ、後の仲間達に大丈夫だと身振りで合図した。アシュレイ、背の翼が少々邪魔そうなヨシュア、女性陣、そして最後にロニキスがやってくる。
そうして彼等の前には、恐らく彼等が、待ちに待っていたものが現れたのであった。
目立った装飾など何も無い、無骨な岩で塞がれた扉。それが扉と判るのは、単に中央に鍵穴がぽつりと存在するからだ。何も無ければ、只の蓋と言う方がしっくりとくる。
「さっきのヤツは、この扉の門番だったという訳じゃな」
「なるほど、それで攻撃を止めたんですね。我々は合格・・・ということなのでしょうか?
ヨシュア、ここでいいのか?」
ロニキスが呼んだ青年は、透き通る鍵を片手に皆の期待を背負いつつ、扉を覆う苔を剥がし氷を削り、鍵穴を検分して頷いた。「開けますよ、いいですね」「ああ、頼む」
一体、鍵の導く鍵とは何なのか。彼等の期待は嫌でも高まっただろう。背後に畏まる古の門番も、ヨシュアが鍵を回し扉を押し開くその儀式を、じっと見守っているようであった。