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「これは・・・」
「何も無い広間ですね・・・」
失礼ながらヨシュアの翼を押しのけ、些か拍子抜けした感でラティクスはぐるりを見回した。広大な空間ではあるものの、其処は殺風景な洞窟そのものといった場所であり、今まで彼等が遺跡の守護者と死闘を演じていた通路と同じく燭台だけが多く配されている。一見してこれまでの道中と特別変わった雰囲気はない。
けれども魔物の気配が無いことを戦士等に確認したミリーが、一体何を感じたのか、とと、と小走りに遠ざかった。「みんな来て!」来て、きて、きて、と驚きに満ちた谺が届く。
「どうした、ミリー?」
「氷の中に女の人が閉じ込められているわ!」
「なんだって?!」
何事かと一行はミリーの行く手に向かったのだが。
あぁ、やはりそうだったのね。
マーヴェルは独り、胸元を押さえた。
そうだ、其処には一つだけ、巨大な氷の柱がぽつんと建っている筈だ。正確には、それは地中から生えているのかも知れない。たちまちにして巻き戻る記憶が、《マーヴェル=フローズン》なる器が湛える魂を泡立たせる。
初めは慎重に足を運んでいたヨシュアは己が瞳の結ぶ像が鮮明さを増すに従い歩調を速め、最後には燭台の光に揺れる氷柱へと駆け寄った。
「エリス・・・!!
エリス・・・どうしてこんな姿に・・・!!」
ヨシュアのただならぬ叫びは、一同にそれがヨシュアの探し人であると知らしめた。
いつかのマーヴェルの話を思い出したロニキスが、はっとする。そして、マーヴェルがこの場への訪いに消極的であった理由に納得し、現状が複雑な問題を孕んだものであると悟るのだ。
氷の中には、一人の愛らしい少女が閉じ込められていた。冷たい棺には装飾的な文字が刻まれているようだが、すっかり薄くなり判読出来ない。棺の異様さよりもまず、青年の眼は内へと奪われる。長年度重なる結露により滑らかさを失った氷面に歪みながらもすらりと広げられた翼。瞬時に凍り付きでもしたのか、ひらめいた一片の羽毛が永遠に地に届かぬさま。
「死んで・・・いるのか?」
ミリーとラティクスは、扉の向こうに待ち受けていた意外な事態への戸惑いを隠さない。そして二人は、驚愕の叫びの後、不自然に沈黙したままであるヨシュアを訝しむ。
「ヨシュア、彼女は君の・・・」
「妹さん、なの・・・?」
「・・・はい。彼女は、エリスは、」
(・・・えぇ。これは、このフェザーフォルクは、)
なぜとは、何故、とは、正に彼等の為にあるべき言葉であった。
独りの兄に、独りの妹に。互いに孤独だと信じて疑わなかった者達に。
なぜ、この世に存在しない者が、氷の棺から僕に安らかな笑みを浮かべているのか。
何故、この世に存在しない者が、私に向けられるはずの眼差しを奪っているのか。
「僕の妹です! どうしてこんな所に・・・?!」
(私の捨てた私自身! どうしてこんな事になってしまったの・・・?!)
「ねぇ、可哀想だよ。助けてあげようよ」
こんな冷たい氷の中で・・・とミリーは呟いた。
軽い混乱からか二の句を告げずにいたヨシュアは、ミリーの言葉に、そして手の内の重い鍵の感触に、為すべきことを思い出す。この部屋には、魔王討伐に必要な某かが彼等の訪いを待ち侘びている筈ではなかったか? それが何故。
「ヨシュアさん?」
「・・・すみません、少し、混乱してしまって。妹がここにいる理由が・・・
一体、ここでどうしたらよいのかが・・・上手く考えられないんです」
「確かに解せぬの。我等はムーア王から鍵を授かり、シルヴァラント王の教示でここまで来た。それが・・・この広間に居るのがヨシュアの妹君ただ一人とは。鍵は、最早何も語らぬのか?
のぅ、マーヴェル」
「・・・鍵、ですか」
茫然自失とした状態のヨシュアの手から鍵をそっと抜き取ると、彼女はぐっと握り込んだ。
「マーヴェル、」
「はい、ロニキスさん?」
「あ、いや、・・・大丈夫か?」
瞬間、マーヴェルの、麗人の、少女の表情は途方に暮れていた。
「・・・ごめんなさい」
マーヴェルはアシュレイに向き直って首を振った。
「ごめんなさい、私にも、鍵の意図は・・・判りません・・・」
「そうか。折角ここまで来て、八方塞がりとは難儀じゃのう。さて、これからどうしたものか・・・」
先ずは、と老戦士はヨシュアを見遣る。目が、青年の探し人を救うのが先決だと物語っていた。マーヴェルの表情は相変わらず凍えたままで。ロニキスにはただ成り行きを見守ることしか出来ない。
「こんな氷の中に閉じ込められて・・・今、僕が助けてやるからな」
ヨシュアは何とか気持ちに整理をつけたか、両手を軽く広げて歩み寄る。掌が輝き始め、紋章術で氷を砕くつもりなのだろう。それを手伝おうと、ラティクスも剣を抜き放った。
だがその時、
私の身体 消す訳には 参りません
強制的な思いに駆られ、反射的にマーヴェルの身体は動いていた。皆の前に躍り出、氷柱を護るようにして両手を伸べる。あたかも大きな翼の様に。
「みなさん、止めて下さい!」
「どうして?」
「マーヴェルさん、どうして止めるの? 助けてあげましょうよ!」
予想外の出来事に(少なくとも一名を除いては)、疑問の声が上がる。だが、ただマーヴェルは言い募る。当然である、彼女の選べる道は少なかったのだから。
「お願いです! 触れないで下さい!」
理由を訊かないで下さい、そんな言葉の不自然さはマーヴェル自身にも解っていた。だからミリーは繰り返す。
「・・・可哀想だよ・・・」
心優しい言葉は、ラティクスを動かした。ヨシュアは、両手をだらりと下げ、じっとマーヴェルのことを見ている。いや、睨み付けているのだろうか。黙って進み出たラティクスに、マーヴェルは叫ぶ。
「止めてください! どうしてもと言うなら・・・」
「マーヴェル、さん?」
「あなた達と戦わなければなりません・・・!」
「そんな・・・そこまでして・・・!?」
ミリーの驚愕の眼差しが痛かった。自嘲する。こんな言葉を吐いて、今までの信頼を壊して、この後どうやって一緒に旅を続けられるだろう。でもマーヴェルは今、《この身体を失う訳にはいかない》、その思いだけに身体を支配されていた。ほんの少し前までは、このまま消えてしまっても構わないと覚悟を固めていたにもかかわらず。鍵を握りしめる左手が氷の様に冷たく熱く、膚に焼け付いたかのようだ。
「貴様!」
戦闘態勢に入った宝珠の閃きに、遂にヨシュアが激昂する。妹の亡骸を発見し、信じていた筈の仲間、同志に裏切られ、あまりにも理不尽な言葉を投げ付けられた。全てが彼の逆鱗に触れたのだ。
常の柔和な物腰からは信じられない程の怒気を孕んだ、絞り出す様な声にマーヴェルはたじろいだが、宝珠を収めようとはしない。一触即発の状態を、ラティクスとミリーはどうする事も出来ずに呆然と見ている。
その時、制止がかかった。
「まぁひとまず落ち着いたらどうだ! 皆、おかしいぞ?!」
「ロニキスさん・・・」
「そうじゃ、そのようにいきり立っても仕方ないじゃろう」
やっとのことで声を上げられたものの、ロニキスは後悔していた。不測の事態を恐れ、マーヴェルの身上を口外しなかった結果がまさかこのような形で現れるとは。幸いにも、冷静なアシュレイの加勢があった。だがこの少女を護らねばならないという思いとは裏腹に、上手くこの場を纏められる自信となると全く心許ない。
「マーヴェルもそこまで言うのなら、何か理由があるのじゃろう。皆、その意を汲んでやることはできぬか?
ヨシュア、ヌシには辛いと思うが・・・」
「とにかくマーヴェルもヨシュアも、一度武器を収めてくれないか?」
縋るようなロニキスの頼みに、ヨシュアの眉が申し訳なさそうに歪められた。・・・そして、何かを払う様にかぶりを振る。杖を構え、仇敵を共にする筈の仲間に向ける。そこには虚ろな表情をしたマーヴェルがいた。氷柱を前に対峙する二人は、場にそぐわず、まるで壁画のごとく美しく。片割れの投げ付ける語気の荒さがそれを穿ち崩す。
「僕は、妹を助けるために今まで生きてきたんだ!
こんな状態のまま、妹を、エリスを放っておけというのか?!
ふざけるな!! 戦うというなら戦ってやろうじゃないか!
僕は何を犠牲にしてでも妹を助け出す!」
一番の理解者であった貴方に、何故止められなければならないのだ。同じ気持ちを分かち合えたと感じたのは浅薄な思い込みであり、僕は貴方に騙され、裏切られているのか。
だとしたら、何時か出会う兄に血塗れの手を見られるのを恐れていた貴方は何だったのか。
大丈夫だと、生きて出会うための犠牲を誰が誹れるかと、励ました時の貴方の安堵は演技だったのか。
ヨシュアには判らなかった。口を衝く言葉とは裏腹に、彼は未だマーヴェルを信じていたのだった。
「生命は間に合わなかった。せめて亡骸だけは故郷に葬りたいと、そう願って何が悪い?」
ヨシュアは本気で紋章術を放とうと印を結び始めている。容赦のないそれは裁きの光、レイ。
「マーヴェルさん、退いて下さい」
彼を止めるのは無理だと判断したラティクスが、マーヴェルを促す。(けれども真実は、マーヴェルが氷晶で光線を防ぎ得ると知りつつこの呪紋を選んだ所に、未だヨシュアの躊躇いを見て取れるのだ。)
しかし妹もまた、兄と同じくかぶりを振った。戦う決心をつけている様子に、それ以上ラティクスにかけられる言葉が無い。
「退け。邪魔するな・・・貴様になら解るだろう、今の僕の気持ちがっ」
その言葉だけは、裏切りへ怒りではなく、同志としての確信に満ちていた。
マーヴェルの黒々とした瞳から、涙が滴った。
「やめて・・・ごめんなさい・・・」
敵対と突然の謝罪の言葉。マーヴェルを敬愛して止まなかったミリーの視界もまた、滲んでいる。
「マーヴェルさんの考えてること・・・私わからない・・・!」
冷気を放っていた宝珠が急に熱を帯び、放電する。突然の召喚と解放にの繰り返しに混乱した精霊達の影がマーヴェルを包み込み、ぼんやりと影のみを現す彼女の声だけが聞こえた。
「もう嫌・・・もう耐えられない!!
こんな思いをするなら、みなさんと一緒に来るんじゃなかった・・・!!」
「マーヴェルさん!」
私の身体 どうか 消さないで
あなたはわたし? ごめんなさい、でも
真白い靄に包まれる中で、鍵の貼付く左手から切実な声が聞こえる。迷宮に入ってからしきりにさざめいていた自らの声、初めは空耳ともとれたそれは、今や仲間達の呼び掛けよりも鮮烈に刺さる。
しかし進むことも戻ることも出来ない絶望の中、マーヴェルに哀れな嘆願を聞き届ける余裕などなかった。ただ一つ、生きる標とした人からの痛烈な言葉が世界を無意味なものへと変えていた。
「・・・嫌・・・いや・・・っ」
宝珠が一際強く光る。堪えきれずレイを放ったヨシュアの前に、見事な氷壁が現れ辺りを眩い閃光で包んだ。「やめて、マーヴェルさんとは戦いたくないのに!!」ミリーが遂に二人を止めるべく強行手段(彼女の十八番は圧搾大気だけではなく、対象物の動作を鈍らせるものもある。その負荷を極限にまで高めれば、この程度の諍いを止めるのは容易い。それを今までしなかったのは、偏に争っていたのが彼女の仲間達だった為である)に出ようとしたその時。
マーヴェルは宝珠を放り出し、崩れ落ちる。細い両腕で頭を抱え、首を振った。
「みんな私が悪いの・・・。 僅かな希望に縋れるほど強くなかった自分が悪かったの・・・」
「何をするつもりだ!」
未だ精霊の影は濃く、マーヴェルを伺う事の出来ないヨシュアの切迫した様子だけが感じられる。
ごめんなさい。私は兄を、皆をきっと悲しませてしまうけれど。
そしてあなたをも巻き込んでしまうけれど。
どうして こうなってしまったの?
「ごめんなさい・・・さような・・・
左手の疑問に答えることなく、短剣が空を切り、氷柱に魂を繋ぎ止める魔力の集う一点へと振り降ろされた。亀裂が走る。
契約は破棄され、百万もの炸裂音と共に閃光が走った。
氷の棺という限られた場に込められていた魔力が解放されると同時に、爆発的に身も凍らんばかりの風が吹き付ける。氷の破片の幾つかを受け、ヨシュアのローブが、ラティクスのマントが裂けた。
「これは、どういうことなんです? どうして、解ける・・・」
予期せぬ事に怒りを忘れたヨシュアが呟く。ただ凍える風と光に満ちた一瞬の後、マーヴェルと氷柱の在った場所では光の残滓が塊となり、徐々に輝きを弱めつつあった。「どうして?」とそうヨシュアはまた呟く。
訳の分からぬ事態に、ラティクスは、それを理解していると思しきミリーに尋ねる。
「一体何が起こってるんだ?!」
「何てことなの・・・えぇと、身体と幽体が分離してる。ううん、もう崩壊と拡散が・・・じきに魂の消失が始まるわ。何とかしないと、マーヴェルさんが、マーヴェルさんが消えちゃうよ!」
「なんだよそれ! 消えるって、どうして?!」
「わかんないよ!」
目の前の光景から受ける印象は呆然とするヨシュアと同じなのだろう、ミリーは恐慌を起こしていた。ラティクスはもう一人の紋章術師であるロニキスに問いを繰り返す。某かの呪を唱えていたロニキスは、一旦それを止め、苦渋の表情で早口に答えた。
「マーヴェルに掛かっていた術が解け、存在の均衡が崩れたためだろう。
こうなってはどうしようもない・・・未だ遡呪が効くか? っ、無理だろうな」
ラティクスは尚も尋ねようとしたが、それを制して自棄の様にロニキスは詠唱を再開する。攻撃呪紋など比較的術式の単純な紋章術にはそこそこ長じてきた彼であるが、目の前に広がる綻び縺れた魔力と存在の塊に立ち向かうには技量が足りなかった。だが頼りのヨシュアは放心状態であり、だからといって何の手も打たない訳にはいかなかった。
最悪の事態を考慮して以前から編んでいた術を放つ。それは、法術に属する解呪や蘇生の法に閃きを得てロニキス自身が試作的に構築したものだった。ただしロニキスが法術の才は無きに等しい。
「否せよ!」
その言葉が発された瞬間、マーヴェルから発されたのと同じ光が術者を撃つ。その銀鎧には亀裂が走り、背から赤い翼の様に血が迸った。マーヴェルと出会う前、この地に来たばかりの頃に初めて負った傷があたかも再現されたかの様に。
「ロニキスさん?!」
「大丈夫だ、死にはせん。だが皆離れろ、巻き添えを喰らうぞ!」
「何をしようって言うんですかっ」
「散る前の状態に戻せないかと思ってな。全ての取り決めが為される前が望ましいが・・・。
しかし時間稼ぎにしかならないらしい。とにかく私から離れろ!」
遡呪。術を掛けられる以前の状態に対象を遡らせること。
術を掛けられたという事象の否定は、この瞬間の時空の否定であり、ミリーの紋章術によって癒されたロニキスの傷もまた過去の状態に立ち戻ったのである。ロニキスの口振りから術は失していない様だが、術者自身にもまた降り掛かった。が、彼は微動だにせず、辛うじて輪郭を留めるマーヴェルに再度同じ呪を繰り返しはじめる。
「此の
眼に映すは在りし光素
耳朶を打つは渡りし音素
鼻腔が捉うるは漂えし芳素
舌下の味するは滲みし香素
膚に触れるは全ての境界
此の身は発す 此の身が発す言の万葉こそが絶対と」
マーヴェルであった光は、幽かに輝きを取り戻したかに見える。
だが同時に神経を逆撫でされたような気分の悪さに襲われた。それはロニキスに因るものだろうが、唱えている本人の蒼白さと滲む汗から、ラティクスが感じるのとは比べ物にならない程の負担が窺えた。
離れろとの言葉通り、ラティクスもまた古傷が疼きはじめるのを感じた。ロニキスよりも紋章術で癒した怪我の多い彼に、この場は危険だった。それはアシュレイも同様だ。明らかに常の紋章と異なる術を続けさせるのは危険だと感じたが、呆然としているミリーとヨシュアを引き摺る様にして移動する。
「汝が虚言に力無く、純然たる誤謬を我が前より速やかに放逐す
故に」
直前の術が活性化したか、ロニキスと距離を取ろうとしていたアシュレイの身体から危惧した通り血煙が上がる。大きな傷持つ左腕だけではない、全身の古傷という古傷が開いたのだ。目を見開き言葉を途切れさせた術者に、しかし地面に膝をつきながら、アシュレイは怒鳴りつけた。
「続けて構わん!!」
「否せよ!」
言葉の解放と同時に、術者もまた血を吐き咽せ込んだ。光は未だ消えていない。
「ロニキスさん、マーヴェルさんは・・・」
「・・・駄目だ、遅らせるのが精一杯だが・・・それも術を掛け続けていないと効果がない・・・」
一頻り咳き込んだ後、ロニキスは悔し気にマーヴェルだったものを見る。時折咳が混じるのを除けば、話すのに支障ないようだ。仕事柄なのか、自らの苦痛を隠すのが上手い。
「せめて光が散るのを留めることができればヨシュアの意見を訊けるが。
いまの状態で彼は使えない。すみませんアシュレイさん、大丈夫ですか?」
「見た目派手なだけじゃ。ヌシの方が深手じゃろう・・・外法紛いの術を使うたな?」
「まぁ我ながらトリッキーと言うかアクロバティックな構築ではありますが。
ともかく、今の術の維持を失えば、再度掛けなおすのは難しい・・・」
「このまま諦めるしかないんですか!!」
「・・・いや、ラティ、済まんが嬢ちゃんを気付けてもらえんか?」
「ミリーを? ヨシュアじゃなくていいんですか?」
「ああ、嬢ちゃんをだ」
言われるがまま、未だショックで満足に応対出来ないミリーにリキュールを含ませる。酒精の感触に、彼女の視線がはっきりとしたものに戻ってラティクスを見た。
「・・・、ラティ・・・わたし・・・」
「大丈夫だな? アシュレイさん、ミリーは平気です!」
顔色の悪いラティクスと、明らかに尋常でない他の面々に、少女は再び強張りそうになる。これを叱咤する様に、老兵が声を張り上げた。
「嬢ちゃん、このままではマーヴェルが逝くのを止めることはできん。解るな?」
「はい。はっきりと」
「流石は生命を司る法術師の嬢ちゃんじゃ。なら、まずせねばならない事は何じゃ?」
「マーヴェルの生命が賭かっている」、ミリーは先程までの狼狽が嘘の様に恐ろしく真剣な顔をした。幼馴染みのラティクスですら初めて見る表情は、多分彼女が人生で初めて為したものに違いない。
彼女は老兵のこの奇妙な問いに、臆することなくさらりと答えた。
「この場での解呪、いえ遡呪が失敗した以上、とりあえず存在の固定ですね」
「そう、この《存在》を世界に留めるんじゃ。 事の整理は後でも出来る」
「やってみます」
「そんなことが出来るのか、ミリー?」
「うん、法術には記憶方陣があるから。ヴァンの王妃様の話、覚えてる? とても難しい術よ。
ちょっと本を読んだからって、出来るなんて思えない、でも・・・ね。
・・・ラティ、剣を借りてもいい? ちょっと傷むかも知れないけど」
未だ握ったままの長剣を見つめられて、当然頷き差し出した。
「ありがとう。・・・ラティ、私・・・お父さんもドーンも助けられなかったよね」
柄に重ねた手をぎゅっと握られた。それは酷く冷たく、震えてさえいた。
「マーヴェルさんも私には助けられない。
でも、ロニキスさんが時間を作ってくれた。だから私は、その時間を使ってもっと沢山の時間を作る。自分の役割だけは果たしてみせるわ」
青年は頷く。ミリーが挑もうとしていることの困難さは己に計れない。だが願わくば、自分の力をこの剣を通して伝えられますように。
「あぁ。信じてるから」
少女の背に成功を願うほか出来るのは、最後の術師の気付けに取り掛かること位だった。
未だ効力を失っていないロニキスの術が催す強い負の力の圧迫感を堪えつつ、今や一人の法術師は、儚く輝ける存在に向かい歩を進めていた。重い剣は彼女の細腕に余り、地を引き摺る様相であったが足取りは確りとしている。
辛うじて正気を保っている馴染みの紋章術師にもう少しだけ時間を、と唇を引き結び、ミリーは一気に駆け出した。出会った時から慕ってきた存在の重みを感じるからこそ、この場に必要な記憶が容易く蘇る。
「燦然と輝く十字星座の光輝よ 此方に庇護を
力強き七星の一閃よ 此方に加護を
大いなる聖域に満ちしものよ 此方に神護を!」
朗々と謳い上げ乍ら、地に向けた剣の鋭い切っ先で硬い筈の岩盤を易々と削る。火花が散り、見る者に軌跡を悟らせる。如何なる空間把握を行ったのか、彼女はマーヴェルだったものを正確に中心に据えて正方形を二つ重ねた神秘の形、八芒の星を踊る様に描き終えた。そして或る一芒に躊躇いなく剣を突き立てる。刀身は澄明に鳴り響いた。
「紋章法術奥義!」
薄暗い中に見えるか見えないかだった軌跡に、俄に青白い光が通った。薔薇色の髪が方陣から吹きつける風に舞い上がる。負の力は全てが散らされ、湧き上がるのは聖とも無ともつかぬ力。ロニキスが完全に膝をついて、術を止めたのが知れた。「次は私が」「頼む」目だけでそんな遣り取りが為されたのだろう。
「我、請わん
此に在るは悠久なる安定 静謐なる聖域
万象に溯源する 寄る辺無き素源は 鳴動を止み
凍てついた星辰の下で 創世の表象すらも
その形相を 保つだろう」
風が止み、瞬時に精神力の大半を方陣がもぎ取って行った。ここで集中を途切れさせれば失敗する。
両手で剣の柄を握り締め、眼を見開いたままでいた。八芒の陣から徐々に伸び上がる魔力が、対象を確かに囲む事を見届けるまで。奇妙にも薔薇の絹糸は未だ踊ることを止めない。
「記憶せよ!」
霧にも似た頼りなげな人影が凝り、一条の光線として天に放たれる。それは確かに光の柱であり、直後くるりと見えない手に巻取られ玉となった様は、眩い星であった。
はらりと重力に従った髪の乱れを整えるのも忘れ、ミリーは陣を凝視する。時間も道具も揃わない中、己の法術の腕前で方陣を為した事実を信じられないでいたからだった。だがそれは夢ではなかった。定常状態に移行した方陣は、既に彼女の手を離れて動いていたのだから。
「・・・成った・・・・・・?」
ならば、私の役目は終わり。感慨に浸りもせずにその事実を仲間へと告げようとしたが、何やら違和感を覚え自らが封じた存在を確認する。極度の集中に過敏になった彼女の知覚は、陣から洩れ出す異様な力を察知する。本来全ての存在を留める奥義の効能を考えれば、在り得ない事象だった。
周囲があっと驚く間も無い。
ミリーは光の中に手を突っ込み、素早く万物の理に反するそれを叩き出した。全てを解く陣の中でも変わらず形を保っていた物は、鈴の音の如くさんざめいて足下に散らばった。それは数え切れない虹色の欠片と、その虹に埋もれた唯一の透明な輝きであった。
矢張り即席の術が不完全だったのかと、改めて方陣を見つめ直す。しかし目立った問題は無いようだ。
「・・・やったな」
「うん。これで当分は大丈夫だと思うわ。ヨシュアさんはもう大丈夫?」
「あぁ、直ぐに来るよ。そういえばさっきのは何だったんだ?」
「マーヴェルさんの宝珠の欠片と・・・鍵に付いていた魔晶ね。どうして残ったのかしら」
虹の司る異界と近しい力のことを、マーヴェルの言葉と共に思い出す。この世に収まりきらない力だからこそ、記憶出来なかったということか。だが魔晶は違う。まるで魔晶が自らを護る為に虹の欠片を引き寄せたように見えてならない。それは今し方触れた時に感じた奇妙な感覚からの推測でもあるのだけれど。
そんなことをじっと考えるミリーに、実は待ち侘びていた術師の声が掛けられた。
「お見事でしたよ」
「ヨシュアさん! あの、何だかとんでもない事になっちゃったけれど・・・」
「・・・はい、皆さんにはご迷惑を掛けました。もう取り乱したりはしませんよ」
「え、でもマーヴェルさんは・・・」
妹さんを助けるのを反対していたんじゃ、と続けるミリーに、ヨシュアは告げた。
「ロニキスさんから、マーヴェル・・・いえエリスが交わした魂の契約のことを聞いたんです。
・・・信じられません、でもこれで、色々なことに納得がいきます。全ては手遅れなのかも知れませんが」
今は平生の落ち着きを取り戻したかに見えるヨシュアであったが、自嘲の色が濃い。胸中にある深い後悔の念がはっきりと見て取れる。
「魂の契約・・・そうだったのね」
少女は頷いた。ラティクスも共に話を聞いたので、特に疑問を差し挟まなかった。今まで話せずにいたことを詫びたロニキスは相応の責務を果たし終え、今や立つこともままない状態である。
ヨシュアは奇跡のごとく完成された記憶方陣を食い入る様に見る。不安定な状態を辛うじて繋ぎ止めているマーヴェル、否、彼自身の妹をどうすれば助けられるか必死で考えているのである。優れた紋章術師である彼にならもしや難題を解けるかと、仲間達は望みをかけていたが。それは少しでも紋章術を齧った者には判る、全く分の悪い賭けの如き期待であった。
ここまでの二人の術師の行為により当面の危機を回避したとはいえ、所詮は時間稼ぎ以外の何物でもない。破棄された魂の契約によって安定を欠いた一人の魂と二人分の身体を然るべき場に再統合する技など現存しないのだから。時間稼ぎが出来た点だけでも、奇跡的だと人は言うだろう。
絶望的な表情をしたままで、ヨシュアは面を落とした。
「これは?」
「え、あぁそれは方陣と馴染まなかったので外に出してしまったんです。危険ですから」
それ、と呼ばれた石の欠片を拾い上げた青年が膝をつく。それきり沈黙したので、不審に思ってミリーが覗き込んだが。「ヨシュアさん、どうしたんですかその眼?!」
つられてラティクスも覗き込めば、常は緑柱石を嵌めたかの瞳が青白い輝きを放っている。丁度、方陣が発動した時のような色合いであった。白い指に摘まれていたのは魔晶であり、同様に青白く輝いていた。
咄嗟に魔晶を叩き落とそうと手を挙げたラティクスを制して、ヨシュアは何事かを呟き始める。
同時にその足下に散らばる虹の破片から淡い光が立ち上った。破片は次々に白化し、次の瞬間には灰のように崩れてゆく。ラティクスもミリーも、何も言えぬままただ見ているしかない状況で、ヨシュアは虹色の靄に包まれて尚も詠唱を続けていた。生憎とそれは小声過ぎて周囲には聞こえなかったけれども。
万色混ざりあった虹の精が意思あるものの如く集い、ふわふわと舞い、気紛れのように弾ける。そんなあたかも夢の中の情景は、離れている者達にもはっきりと見て取れるだろう。ヨシュアは当然の様にそれらを周囲に遊ばせ乍ら、立ち上がり記憶方陣を見据えた。
その瞬間に起きた事は術師にしか解らないことだったろう。
あまりの事にミリーはぺたりと座り込み、ラティクスは開いた口を閉じるのも忘れた。
眼前には虹で描かれた奇異な意匠が現れ、散して方陣へと吸い込まれて行ったのだった。
意匠は荘厳な樹の形を為しており、離散した靄に触れた二人は多くの幻をその向うに垣間見た。それは薄衣の女神であり、様々な縁の輪を身に纏う糸紡ぎ師であり、一輪の花を手に無心に笑う流浪の少年であり、黄金の槍を手に鬨の声を上げる戦士であり更には・・・一瞬の間に変幻する人物像は手が届きそうな程近くに見えたが、異質を感じさせ到底触れることなど出来なかった。それが虹の見せた此処でない何処かの像であるならば、どうしてそんなものを抱えているのか。なみなみと満たした水汲み壷を手に輝かんばかり微笑んだ乙女は、軽やかに虚空へと姿を消した。それが最後だった。
虹が晴れたその場には、何事も無かったの様に建つ氷柱と倒れ伏したマーヴェルの姿。先程までの不安定さはなく、確りと形を保ったままでいる。
「今のは・・・?」
「記憶方陣が・・・解かれた・・・ヨシュアさんがやったのね!」
しかし表情を明るくする二人とは裏腹に、今し方奇跡を具現した術師・・・ヨシュアは己が両の掌を凝視したまま動かない。その手に在った筈の魔晶は不可思議にも消えていた。
「・・・僕は、一体何を?」
「何って・・・マーヴェルさんを元に戻したんじゃないですか?!」
「僕が? それは僕じゃない。僕の力で精霊を扱えるはずが・・・いえ、そんな事よりも・・・!」
首を振って、ヨシュアはマーヴェルの元へと急いだ。ラティクス、ミリーの二人に加え、ロニキス、アシュレイも無事を確かめるべく向かう。
マーヴェルは、ゆっくりと身を起こしていた。意識ははっきりしているらしい。
「大丈夫ですか?」
いまでは落ち着いたヨシュアが気遣うように声を掛け、そしてそのまま凍り付く。
「・・・予想外の事態が起こっていた様ですね」
マーヴェルから凄然とした気配が流れ出す。その口が紡ぐ、玲瓏たる声音の所為かも知れなかった。
「貴方は・・・マーヴェルじゃない?」
この奇妙な問いかけに、マーヴェルは奇妙な答えを返した。
「はい。そしていいえ。私の名はアザリアです。
そして今は、アザリア=マーヴェル=フローズンと名乗るべきなのでしょう。
私が、貴方がたの求める《鍵》です。魔界の勢力に対抗する助けとなるために、氷に沈み時の流れから離れてこの日を待っていたのです」
淡々と告げる声音には、以前は仲間に向けられていた筈の温かみが無い。ヨシュアでなくともその場の全員が、違和感を覚えていた。それを代表する様にヨシュアが呻く。
「ちょっと待って下さい! 僕には何が何だか解りません!
貴方は僕等が知っているマーヴェルじゃないでしょう?」
「・・・どうやら」
と、アザリア=マーヴェルは、仲間達の戸惑う顔を見回し、そしてフェザーフォルクの姿が浮かぶ氷柱を見上げると疲れたように言った。
「私の身体が空の間に、魂の契約を結んでしまった者がいた様ですね」
「エリスは、僕の妹は貴方と魂の契約を結んだというのですか?」
アザリア=マーヴェルは咎める。
「その名をみだりに口にしない事です。私の中に、この少女の魂もまた宿っているのですから」
「・・・・・解りました。それで、《彼女》は無事なのですか?」
「一度拡散しかけた魂ですから無傷とは言えません、今は深く眠っています・・・ですから解呪の言霊も今は届きません。
でも、いずれは《彼女》にも真実を伝えなければなりませんね」
「《彼女》はどうなるのですか?!」
「問題は、私は私の責務を果たせるのか、ということです。
先程も言った通り、私がここに居たのには理由があるのですから」
アザリア=マーヴェルはヨシュアをじっと見つめた。黒々とした瞳は灯火を宿して青白く光っている。その眼を見て、あぁこれがこの人本来の姿だったのだと、ヨシュアは得心していた。未だ自然とは言い難いが、以前のあまりにも作り物めいた気配が薄れているのは、本来の魂と身体が揃っているからなのだろう。
「幸いなことが重なり、失われる筈であった器を損ねずに済みました。魔晶に封じた《私》の魂が器との接触により目覚め、虹の精が傍に在り、力のある術師が居合わせたからこその偶然です」
アシュレイが問う。
「先程のあれは・・・何だったんじゃ?」
「彼の・・・」
とヨシュアを見つめたままで。
「力を借りて宝珠に込められていた虹の精を使役し、異界の力を引き込んで時を少しだけ元に戻しました。
その状態で記憶方陣を解放して《私》自身を器に定着させたのです。
とはいえ存在が不安定なことに変わりはありませんから、彼等には未だ護ってもらっていますが」
彼等、とは虹の精を指すのであろう。
「大丈夫なのか?」
「当面問題ありません。ただ《彼女》には《私》の役目が終わるまで眠ってもらうことになります」
「役目が終わったら・・・どうするんです」
ヨシュアの声は酷く震えていたが、アザリア=マーヴェルは冷酷に断じた。
「決めることになるでしょう。どちらかが消えるか、或いは二人共に消えるのかを」
兄の肩は震えた。ミリーが息を呑み身を強張らせるのを、ラティクスが慌てて支え。
だからなのか、ロニキスが当然のように返した。
「二人共に生きるという選択肢もあるだろう」
「そうじゃのう」
ゆったりと相槌を打ったのはアシュレイ。その二人共が決して軽いと言えない怪我を負っているにも拘らず、表情に深刻さはない。アザリア=マーヴェルはそれを見て、初めて笑った様だった。
「いずれにせよ、それは・・・その時、の・・・はな・・・し・・・」
「マーヴェル?!」
《鍵》でありし麗人は唐突に声を詰まらせ、再び崩れ落ちる。それを抱き留めつつ空を仰いだヨシュアが見たのは、氷柱に浮かぶ妹の顔であった。
その表情は心なしか、微笑んでいるように見えた。