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客人用の広間の長椅子で剣の手入れをしていた巨漢は「よう。早かったじゃねぇか」と、ぎこちなく右手を挙げて四人の帰還を歓迎した。
彼が宝物殿で受けたペトロゲレルの毒は既に浄化されており、勿論傷口もヨシュアの回復呪紋で塞がれている。しかし未だ炎症の治まらない上半身には、薬草を塗布した包帯が巻かれていた。事情を知らない者の目には、それは大怪我としか映らない。
「シウス、どうしたんだその身体は?!」
「ちょいとしくじってな」
普段見慣れた、膚に浮かぶ緋の模様がすっかり隠れてしまう程の念入りな手当てのしようである。ポートミスに戻ってきて最初に出会ったのがそんなシウスであったから、宝物殿で一体何があったのかとラティクス達に嫌な予感が走る。
「大丈夫なの? 呪紋をかけた方がいいかしら?」
「なに、見た目はこんなだが大体治ってる」
不安を滲ませた声で尋ねるミリーに、シウスは陽気に、むしろ陽気過ぎる調子で答えた。
「治ってるって、包帯だらけだぞ」
「細かい事は気にすんな。毒を食らっちまって、腫れてるだけだからよ」
「毒ってなぁ・・・詳しい状況を説明しろよ」
「お帰りなさい、皆さん。あら・・・そちらの方は?」
毒、の一言にぎょっとしたラティクスはシウスを問い詰めようとしたが、そこにマーヴェルの嬉しそうな声が響いたので渡りに船、とばかりにシウスは部屋に入ってきた彼女に言った。
「その前にマーヴェル、こいつらに宝物殿での事を教えてやってくれないか」
「もう、横着なんだから」
「苛めるなよイリア。悪ぃが怠くて仕方ないんだ」
尚もシウスの陽気な調子に変化はなかったが、それは喋り方くらいは調子を出しておかないと一寸した動作すらも億劫になるからなのだろう。
「それでマーヴェル、一体何があったんだ?」
「えぇ、ロニキスさん達にはお話ししておかないといけませんね。
・・・シウスさん、ついでに包帯を替えますから、こっちに座って下さい」
水差しと底の深い器を載せた盆を卓に置いたマーヴェルは、宝物殿での出来事について語って聞かせた。数々の宝物を盗み出した妖女サキュバスを如何にして打ち破ったかや、勿論シウスの怪我の経緯などを話しながら手際よくシウスの包帯を外していく。全て外し終えると予め乳鉢ですり潰しておいた薬草に水を加えて伸ばし、薄い綿布で適量を包んで広い背中に貼り付け、新しい包帯で固定する。
「医術の心得があるのね」
手慣れているのに感心したイリアは、シウスに用いた薬の調合法を尋ねてその複雑さに更に驚いた。
マーヴェルは照れた様に微笑んで答える。
「心得と言っても少しだけですよ。でも多少は効いたみたいですね。
最初は腕も満足に挙がらない程だったんですけれど、随分よくなりました。」
「だが、まだ暫くは剣は振れそうにないぜ。全く、マーヴェルがいなかったらと思うとぞっとする。
・・・ところで、なんだ? 見たとこ愛想の無いのが一人居るが、まさか一緒についてくるつもりなのか?」
ラティクスの後ろに隠れているレッサーフェルプールには最初から気付いていたのに、改めてそう訊く辺り、シウスは海賊の洞窟で保護した少女の事をきちんと覚えていたらしい。ペリシーもまた、レッサーフェルプールを疎んじていたシウスを覚えていて、警戒した視線を向けている。
「あぁ、新しく仲間になったペリシーだ。宜しく頼む」
一瞬火花を散らした視線に気付いているのかいないのか、しかしロニキスは身も蓋もない紹介をしたのだった。
「これで残りの魔物は全部片付いたかの」
「はい。本当に何と御礼を申し上げればいいか」
大臣ボルクは机一杯に広げられた書類から目を離し、最後の魔物を倒して戻って来たアシュレイとヨシュア、そしてティニークに、精一杯の感謝の念を表すべく立ち上がった。英雄達が王城を荒らす不届き者の首領を下してから十日が経過していたが、それは傷の手当てと体力の回復に数日を要し、加えて後に残された魔物・・・多くはペトロゲレル・・・を一掃するのに手間取ったからであった。あの薄気味悪い魔物は猛毒を持ち戦い辛い上に、厄介な増殖を繰り返す。魔物を駆逐した部屋を一つ一つ封鎖しながら、本日やっと、全てを倒し終えたのだ。
「それでは最下階にも早速掃除の者を向かわせましょう」
目の前にある宝物殿の扉は思い切りよく取り外されており、目下新しい物を製作中である。
大臣の命に従って、そのぽっかりと開いた入り口に清掃用具を携えた使用人の一団が消えて行った。
宝物殿の前はかなり広い場所となっているのだが、現在ここには大小様々の木箱が所狭しと積み上げられ、壁には埃除けの白い布を被せた絵画が幾枚も立て掛けられている。荷物の陰に見え隠れする完全武装したきらびやかな兵士の姿は、どれも高価な宝鎧だ。
魔物の侵入による被害を正確に把握する為に、宝物殿の外にこうして一旦運び出された所蔵品は、ここで目録と突き合わされてその存在を確認される。ボルクの広げていたのがその書き付けだった。
「中々はかどっている様だな。それにしても連中は一体、何を盗って行ったのじゃ?」
「まだ全てを調べ終わった訳ではありませんが、パラスアテネ、穂先失われし槍、光の飛礫といった貴重ではありますが儀礼用の品ばかりを持っていった様です。何はともあれ、被害が少なく済んで安心しました」
「儀礼用? そんなものを盗っていくとは、奴等の目的は何だったのでしょうか?」
「気になるの。却って嫌な予感がするわい」
ほっとしたボルクと対照的に暗い表情のヨシュアと同じ思いを恐らく、アシュレイも感じていた。サキュバスが魔王の名を口にしていた事を考えると、この宝物殿の襲撃には重大な意味があると考えざるを得ないのだが。
「その盗まれたという宝の真価を、魔王は知っていたのでしょうか?
だとすると、僕達は・・・より不利な状況に追い込まれたのかも知れないですね」
「考え過ぎじゃろうて、とは言えんのう・・・」
この様な二人の深刻な会話には何時もの如く加わらず、ティニークは積み上げられた宝物の山を相も変わらず楽しそうに眺めていたが、何か気になる物を見付けたらしい。封の施された古びた小箱を手に取ると、ボルクと何やら交渉を始めた。ボルクは手元の書類に目を落として数度頷き、何事かを書き付ける。それで話はついた様で、ティニークは礼を述べるとそれを丁寧に懐に仕舞い込んだ。
余程いい物を報酬として受け取った様だ。傍目からも明らかに上機嫌であったティニークが更に嬉しくなる事に、そこに待ち侘びていた者達がやってきたのだった。
「ラティさん、帰ってたんスか! 随分お久し振りって感じがしますよ」
「今、帰ってきた所なんだ。そっちは大変だったみたいだね」
「そうッスね。でも、いいこともありましたよ」
「いいこと?」
「何と格闘術の奥義書を貰っちゃいました!」
ティニークは先程の小箱を得意気に取り出して見せる。
「これでまた強くなれるッス。後でイリアさんにも貸しますね」
「あら、ありがとう。その様子だと、魔物退治は終わったみたいね」
「ハイ! ・・・ところで、その後ろのヒトは一体?」
ティニークが指したのは当然ながらペリシーの事であった。アシュレイとヨシュアも会話を止めてラティクス達の方へ歩いてくる。無事に再会できた事を一頻り喜んでから、イリアはシウス・マーヴェルにしたのと同じ様に、ペリシーが同行するに至った経緯を説明した。
後ろのシウスは未だ釈然としない顔をしていたが、広間から宝物殿にやってくるまでにこの猫娘にはしこたま言い込められてしまったので、文句は言わないだろう。「仲間が増えるのはいいが、こいつ、足手纏いにならないのか?」「ならないもん! あんたこそ怪我してるんじゃないのさ!」・・・と、こうである。そこに「シウス・・・よ、ろ、し、く、頼むな?」とロニキスのイリアに勝る念押しが入ったのだから、直に和解する筈だ。
幸いにもその他の面々はペリシーを気に入った様であったし、ペリシーの方も自分に危害を加えないと判った者に愛想を振りまく事にはやぶさかでない。早速ヨシュアの羽根に興味を示して色々と質問を浴びせている。ヨシュアは少々辟易しながも、丁寧に応じていた。
その様子を眺めるマーヴェルが妙に茫と、彫像の様にしていたのをミリーが気にし、その肩から流れ落ちるショールを軽く引っ張った。マーヴェルははっと現実に引き戻されてミリーに向き直る。
「マーヴェルさん、ちょっと元気無いみたいですけど・・・大丈夫ですか?」
「え、そうかしら・・・」
「看病で疲れたんじゃないですか? 今日はよく眠って下さいよ」
自分はそんなに変な様子だったのだろうかとマーヴェルはどきりとし、慌てて話題を替えようとした。丁度目に映った物を口に出す。
「新しいペンダントね、それ・・・」
「あ、わかりました? 貰ったんですよ♪」
「誰に?」
「ラティになんです♪」
途端にそこから先は他愛ない女の子のお喋りになり、ミリーの興味はマーヴェルからは逸れてくれた様だった。
アシュレイはこうした光景に目を細めたが、先程のヨシュアとの会話を思い出してその表情はやや翳った。
「さて、こうして戻ってきたという事は、ヌシ達の用はすっかり片付いたのじゃな?」
ロニキスは頷く。最早星の船に関心は無く、一刻も早く前進を再開するべきだった。
「はい。ムーア王とはもう謁見出来るのでしょうか?」
「勿論王は、あなた方との謁見を心待ちにしておられます」
この問には、大臣ボルクが代わって答えた。一行が速やかに謁見を果たせるよう、既に王は数日前から城に戻っている。そしてラティクス達がここで話している間に、ボルクは兵を遣ってこれから謁見する旨を伝えていたのであった。結局それが、手っ取り早く感謝の意を表明する方法であろう。
伝説の精霊達が描かれた高い天蓋の下に座していたのが、ムーアの王だった。
「そのエンブレムを託されたものが遂に訪れたか」
彼はロニキスの持つヴァンエンブレム、そしてアストエンブレムを長いこと見つめていた。頂を飾るのは純金の針金を細かく編んで造られた宝冠であり、編み込んである深緑の石玉が美しい。その優美さは刺繍の施された緑のマントと共に、正にムーア芸術の産物である。
彼の沈黙は、単純な驚きや喜びではなかった。一行は状況にそぐわぬ違和感を覚えたが、漸く穏やかな声がこう告げる。
「まずそなたらには感謝をせねばならぬ。我が国の憂いをよくぞ晴らしてくれた、これはささやかな礼だ」
衛兵が報償金と、メンタルリングや紋章術の古い書物など旅に役立ちそうな品々を持って現れ、それをロニキスに手渡した。彼が丁重な返礼を述べた後、いよいよムーア王は控えていたボルクに命じて周囲の者を下げさせる。
「さて、この様な強者が揃っているという事は、魔王が倒れる時は近いと・・・そう信じてよいのだな」
「そうなるよう、全力を尽くします」
「心強い」
ムーア王は立ち上がると、一つの大きな鍵を取り出した。
「我が国に伝わる物は、これなのだ・・・」
水晶らしき半透明の石を加工したそれには、よく見ると数多の紋章が刻まれており、更に複雑な形に切り出された金剛石が嵌め込まれていた。全てが透明にもかかわらず、反射角度の違いで金剛石は強く輝く。
下賜品で両手の塞がっていたロニキスに代わり、ラティクスが鍵を受け取って尋ねる。
「これは・・・一体何の鍵なのでしょうか?」
「その鍵が、真実の瞳を手に入れるにあたって一体何の役に立つのかは知らされておらん。
しかし、鍵は自らを導き、鍵は鍵を導くと伝えられている」
曖昧な答に、一同は戸惑って顔を見合わせた。アストラル王の時といい、ムーア人の遺したかったものというのがどうもよく解らない。いずれ解ると言われても当座は気になって仕方がないというものではないか。
疑問で胸焼けを起こしそうな謁見者の様子に気付いたのだろう。ムーア王はこう言い加えてくれた。
「この紋章はムーア人の用いた古いもので、雪の結晶を模した金剛石は、雪氷の国シルヴァラントを表している。シルヴァラント大陸にはムーア人の遺跡がまだ幾つか残っているそうだが、恐らくはその遺跡の中にこの鍵を使ってしか入れない場所があるのだろう」
「シルヴァラント、ですか」
「そうだ。そなたら、まだ彼の国には赴いておらぬのだろう?」
「はい。これから向かう予定ですので、御助言に従ってその遺跡を探してみます」
「そうするがよい。神に祝福されし地の王ならば、ムーア人の遺物には詳しいだろうからな」
王はさも当然のことであるかの様に話したが、そんな話は聞いたこともなかったので、ラティクスは首を傾げた。だが口に出す前にペリシーが大きな目を見開き、やはり大きな声で尋ねていた。
「神に祝福されし地って?」
この不躾な質問に皆が眉一つ顰めなかったのは、偏にペリシーの無邪気さ故だろう。
王はこの少女に軽く頷き、すっとラティクス達の頭上を指さした。
導かれる様に一同が見上げると、天には玉座の真上に降臨する翡翠色の精霊、その左手の黄金色の精霊、右に紅の精霊が描かれている。王が指していたのは王座の対角にあたる部分であり、首を回すと白蝶貝の鏤められた雪の意匠と共に青い三連の三角形が描かれていた。
「神とは即ち創造神トライアを指し、その祝福とは空に満ちる魔力の流れを指す。シルヴァラントはこの世で最も魔力の濃い地であるが故、この大陸に降り立ったムーア人達は彼の地に都を建造し繁栄したというのだ。
現在でもシルヴァラントは紋章術に秀でた国であるからな。それ故に魔物共に対抗してこられたとも言える。
・・・確か、先の大戦の英雄であった紋章術師ジェランド殿はシルヴァラント出身であったしな」
ヨシュアが確かにと頷いた。生粋の紋章術師であり、そしてジェランドの息子であるヨシュアには王の言う事がよく理解出来るのだろう。しかし今の王の話は、紋章術や伝承と無縁の者には聞き馴れないものでもあった。
「さて、これが我が国での謁見の証、ムーアエンブレムだ。
アスモデウスを無事倒せるよう・・・祈っておるぞ」
そして王は一同の無言を諒解の意と捉え、語ることは最早無しと見て翠緑の石を嵌めた紋章を取り出した。然る後静かに、退出する一行を見送ったのである。
「ムーア王は、魔王討伐にあたって他の王達とは違った意見を持っておられるのか?」
城門を下る際にふと尋ねたアシュレイに、大臣ボルクは少し考えてから、こう答えた。
「いいえ。王は・・・戦を好まず芸術を愛する我が国が、魔王アスモデウスという共通の敵によって他国の干渉を免れてきた事をよく御存知なだけです。・・・故に、我々には我が王が絶対に必要なのですよ」
新月の晩、夜の海はその黒濡れた水面に星影を抱き、洋々と広がっている。
地表に道標こそ無かったが、風と海流、そして星の並びに扶けられて、船は確実に北の地シルヴァラントに近づいていた。ポートミスを出航した時には温暖湿潤であった空気が、寒冷地のそれへと変わりつつある。
甲板には主帆の時折一層強い風を受け止める重乾いた音、船体に沿って現れる波頭の崩れる音が、どれも響きを周囲に充ち満ちた水に吸い取られてふわふわと漂っていた。見張りの船乗りはいたって礼儀正しく、近くで小魚が一匹跳ねても判りそうな静寂であった。
ロニキスが帆船に乗るのは生涯これが三度目である。そして、これ程揺れる船に乗るのもまた、三度目であった。戦艦カルナスを含む航宙艦というものは、船体に受けるあらゆる衝撃を限りなく零にして内部に伝える緩和装置が備えられている為に、揺れるということがまず無い。人類の英知はあまりにも素晴らしい加減速を見せるので、そうでなければ中の人間の生命を全く保証出来ないからである。
ところが、この海を渡る船は終始海面の動きに追随して止まるということをしない。今晩の波は北の外洋にしては極めて珍しく穏やかだというのに、足裏は一定しない重力を感じ続けているのだ。宇宙酔いならぬ海酔い、船乗りの言葉を借りるなら船酔いに、一度は陥ってしまう。だがそれも二、三日のことで、今のロニキスはすっかり回復し、《星の船》で入手した日誌の字面を追えるまでになっていた。角灯を積み荷のしっかりとした木箱の上に置き、その頼りない光と潮の香の中での読書というのも趣があるとロニキスは思ったが、それは幾度も目を通した筈の日誌の中身が実に興味深いものであったからだろう。
───ラーダ達の研究報告を基に計画されたγー238Pの調査。だが私は彼等の説を信用していない。これは彼等の宇宙物理学を疑うものではないが、余りにも突飛な発想であり、信じるには勇気が要るものだ。彼等が何故γー238Pに生命が存在すると確信出来るのか、それが不思議でならない。それともデリバリー・サービスの様に物理屋の連中は指示をして結果を待つだけでいいので、無神経に私達の帰還を待てるのか。家族と引き離されて、狭い船に何ヶ月も閉じ込められる身にもなって欲しいというものだ───
───悪運の神の存在を信じた日であった。γー238P内に豊かな生命資源を発見し、マルカ、ジョゼスとこの悪運を嘆くも、久々に船外に出られるのは嬉しい。γー238Pの全惑星の環境調査と、生命が存在した場合には更なる多段階の調査が予定されていたが、この分だとラーダの予想通りに件の知的生命も存在するだろう。帰還は大幅に遅れそうである。───
───γー238Pの遺伝資源収集の徹底の指示を受けると共に、調査期間の延長が決定された。明日から降下調査を開始する。また衛星の裏に当たる空間に、奇妙な構造物を発見。調査の必要があるが、強い空間歪曲が観測され、本船の出力では転送による内部への侵入は不可能である。増援を要請したが、入れ換えに帰還させて欲しいものだ。このままでは我が子の顔すら判らなくなってしまうだろう。───
この日誌の著者はファーゲット中央生命科学研究所という機関に在籍する者であった。他人の個人的な日誌を盗み読む事には抵抗があったものの、それでもしっかりと読み進めてきたロニキスには、今や星の船の乗組員の目的がおぼろげながら掴めている。
先進的な技術を持つこの者達には元々、惑星ロークに知的生命が存在することが予想出来ていたらしい。それを確かめる為にここまでやって来たのが、日誌の著者なのだ。しかし何故そんな予想が為されたのかについては、残念ながら一切触れられていなかった。日誌の内容の殆どは、家族に対する思いを綴ったものだったからだ。
申し訳ないと心中謝りつつ、ロニキスは考える。恐らく現在惑星ロークに居るこの者達は、石化ウィルスの採取を目的としていたのではないのだろう。採取された遺伝資源の中に、それは偶々含まれていたのだった。もっとも、幾ら命令とはいえ魔王と称される者からサンプルを採取する仕事熱心さには、称賛を通り越したものを感じるが。
そしてまた。ファーゲットという名にはロニキスもイリアも聞き覚えがあった・・・それも連邦加盟国の名としてだ。この二つが同一のものであるかは不明だが、心に留めておく必要があるだろう。
こうした幾つかの点・・・謎の構造物をも含めて・・・を夜空の下で整理し直していたロニキスは、誰かがふらふらと覚束ない足取りでやってくるのを怪訝な表情で迎えた。
角灯に照らし出されたのは、傾城の容姿を持つ者であった。
「どうしたんだマーヴェル、こんな時間に」
「ロニキスさん・・・」
マーヴェルは、まさかこんな場所に人が居ると思っていなかったのだろう。慌てて白い指先で目の縁に溜まった涙を拭い取った。それきり語る言葉を持たず、沈黙する。
外気はかなり冷たいというのに立ち竦む彼女は常の軽装で、見ている方が寒くなった。一体彼女に何があったのかは解らなかったが、ロニキスは自分の外套を着せ掛けて気遣わし気に声を掛ける。
「大丈夫か?」
俯いたまま何も言わないので、彼は辛抱強くマーヴェルが口を開くのを待った。そういえば、イオニスでもマーヴェルは独り泣いていた。
ややあって、マーヴェルはごめんなさいと呟く。それからまた、こんなことを小さく言った。
「ヨシュアさんはとても優しい人ですね。私がとても酷い事を言ったのに、すっかり許してくれました」
「それはよかったじゃないか」
「はい」
しかし裏腹に、マーヴェルの言葉には大きな動揺が窺える。
ロニキスは、彼女達のささやかな口論の様子を思い出した。以前ではあるが、昔の事ではない。アストラル王と謁見する前、タトローイの闘技場で、マーヴェルはあることをヨシュアに尋ねたのだ。元々ヨシュアにはマーヴェルの正体を怪しんでいる節があったから、不可解な言動を時折見せる彼女に過度の苛立ちを覚えたのかも知れなかった。
「もし妹さんが生きる為に手を血に染めていても、変わらず愛せるのか?・・・だったか」
「えぇ。あの人があんまり妹さんの事を可愛かった可愛かったって言うものですから、ついそんな事を言ってしまったんです。だって、ほら・・・私も妹、ですから」
「・・・そうだったな。だが、どうして・・・」
どうして、今、そんなに悲しそうな顔をしているのだろうか。
「そんな私の気持ちをヨシュアさんも解ってくれたみたいで」
ロニキスの疑問はマーヴェルにも解っているだろう。彼女は肩を落として先を続けた。
「自分だって生きる為に何度も魔物と戦ってきたのに、妹にだけ理想を押し付けるのはよくなかった・・・って、謝ってくれました」
ヨシュアは共に戦う内に、マーヴェルの《妹》としての立場に思い至ったのだろう。ロニキスは知らなかったが、宝物殿での戦いの最中にヨシュアは自らの非に気付いたのである。それは戦う己の姿、そしてマーヴェルの姿を見ることによって、彼が唐突に理解した事であった。
似た境遇を持つ者同士であるから、この晩、ヨシュアは心の底からマーヴェルに対して謝ったのである。
・・・ところがこの言葉こそがマーヴェルにとって、辛いものだった。
「でも・・・あの人が考える以上に私の手は、血塗れなんです。それを兄が見たらどう思うのか・・・そう考えたら怖くなってしまって。私が生きて来られたのは復讐の為だから、こんな姿を兄に見られたら私は・・・」
折角拭った筈の涙がまた溢れる。自分でもどうにも出来ない悲しみに疲れ果て、マーヴェルは人気の無い場所を探して彷徨っていたのだろう。
真紅の盾に家族を殺され、仇を討つ為に旅をしている。それ以外にマーヴェルが自身の過去について話した事はなかった。仲間達は詮索好きでなく、これまではそれで上手くいってきたのだ。
しかし今、明らかにマーヴェルは話したがっていた。だから、ロニキスは尋ねのだっだ。
「マーヴェル、そんなに自分を追い詰める必要はないだろう?
君が一体何をしてきたっていうんだ?」
「私・・・」
一瞬、マーヴェルの表情に冷静さが走った。自分が口に出そうとしている事の意味する恐ろしさが、或いは彼女を正気に引き戻したのかも知れなかった。
そしてマーヴェルは、確かにある決意を固めたのだ。
「・・・そうですね・・・私はそろそろ、罪を償うべきなのかも知れません。
裁くものがいないのなら、自ら断罪すべきなのかも、知れません。
もしよろしければ・・・私の話を聞いてくれませんか、ロニキスさん」
相手がはっきりと頷いたのを見てこの時、彼女は確かに、ある覚悟を決めたのだった。
「この姿は本当の私の姿ではないのです・・・旧異種族の力と自分の体を引き換えにしたんです。
全ては兄と両親の仇を討つ為に」
「なっ・・・?!」
それは告白者の正気を疑う程の、信じられない言葉にロニキスは愕然とした。
「信じられませんか?」
「・・・・・・いや、書物で読んだ事はある。だがあれは失われた呪法とされていた」
「シルヴァラントには旧いものが多く眠っています。この身体もその一つ」
魂の契約。
そんな言葉がロニキスの脳裏にはあった。
旧異種族には特別に力のあった者の遺体を保存しておく慣習があったという。魂の契約とは死者の力を必要とする者が、契約によって遺体に自らの魂を乗り移らせるという古い術だ。契約者がその正体を見破られて本来の名を告げられるまで、この死者はあたかも生者の如く振る舞うという。
術師としては新米の部類に入るロニキスだったが、有名な術である上に、旧異種族とも深い関係があってよく記憶していたのである。
ロニキスの顔に理解の色が広がったのを見て、彼女は悲しげに目を伏せた。
「勿論、《兄》は私がこんな穢らわしい呪法に手を染めたとは夢にも思わないでしょうね」
「まさか・・・君は・・・」
もし本当にマーヴェルが魂の契約の実行者であったとするならば、その正体は・・・ロニキスはその先の言葉を呑み込んだ。この言霊をうっかり発してしまったら、取り返しがつかなくなる。
同時に、彼女に関する様々な疑問が氷解していった。
『生命の息吹が感じられない』というヨシュアの言葉、奇妙な気配。
召喚を主体とする奇妙な紋章術。
その不可解な言動。
全て、マーヴェルが旧異種族の死者であり、その正体を《彼女》と考える事で納得が行く。
「しかし、自分の身体を捨てるなんて、どうしてそんな事をしたんだ?
そうまでしなければならないことだったのか?」
マーヴェルは頷いた。最早ロニキスの言葉に自らの生命が左右されるというのに、全く気にしていない。
「私、真紅の盾の仲間の紋章術師に洗脳されて、最近まで散々罪も無い人々を殺してきた経験があるんです・・・わかりますか? 兄や、両親を殺した奴等を憎めば憎むほど、自分が今までして来た事の罪の重さがのし掛かってきて・・・操られていたから、そんな理由では許されなくて・・・所詮自分も奴等と同類なんだって・・・!!」
彼女が体術に長けていたのも、医術の心得があったのも、全てはこの忌まわしい過去の為だったのだ。
「全ては私の弱さが招いた事でした。
だから私は、力を手に入れる為に躊躇い無く自分の姿を捨てたんです!」
そして気丈に話していた言葉には、抑えきれない嗚咽が混じっていく。こんな気持ちを抱えたままで彼女が旅を続けてきたのかと考えると、ロニキスに掛けられる言葉などなかった。
「家族が生きているなんて、そんな希望を持った事なんてありませんでした。
もし生きて会えると分かっていたら、誰がこんな事をするでしょう?」
「・・・マーヴェル・・・・・・」
暗い夜だというのにマーヴェルの漆黒の瞳は、妙に光を帯びてロニキスを見つめていた。まるで何かを訴えかけるかの様な、ひたとしたその視線は彼に何かを期待し、切望していた。
「私にはもう復讐しか残されていなかった筈なのに。
この身体は、その為のものだった筈なのに!
私は・・・私に、生きている意味なんてもう無いんです。いえ、私が生きていることを・・・もう知られたくない・・・!」
「もう全部、終わりにしたいんです!!」
「馬鹿なことを言うんじゃない」
ロニキスの掌はパン、と乾いた音を立てた。
確かに、彼はただ聞いているだけしか出来なかった。何故マーヴェルがこんな告白をしたのかをやっと理解し、彼女がそれを願う言葉を発するまでは。そして今、彼の手は動いていたのだ。マーヴェルは驚いた顔で、眼前で打ち合わされたそれを見つめていた。
「ロニキスさん・・・」
「驚いたか?」
ロニキスは真面目な顔で尋ねた。彼がしたのは、人を驚かす時にやる、ぱちんというあれである。
「目が、覚めたか?」
「え、あの」
「人を裁くのは人じゃないだろう。神だよ」
少なくともこの世界には確かに存在する神の筈だろう、とロニキスは思った。そして創造神トライアに人を裁く趣味があるとは思えない。何となくそう思う。
「違うか? それとも君は神を信じていないかな?」
マーヴェルはまだ、言葉を失ったままであった。だからロニキスは、決して突き放したのではないのだと解らせる為にマーヴェルの肩を抱き、その背を幼子にする様に軽く叩いて落ち着かせる。
「・・・君が居なくなったら悲しむ人が居ることを忘れるな。
ミリーは君と旅をしたいと言ったんだ。君が過去、誰であろうが、何をしようが関係ない」
その時、伏せたマーヴェルの瞳の中をシルヴァラントの雪明かりの様に青白い光が過る。彼女は肩越しにふっと満天の星を見上げて得心した様だった。
「ごめんなさい・・・そうでしたね・・・私は・・・どうかしてたみたいです・・・」
そう呟いたマーヴェルの背が酷くか弱い、例えば見た事もないフェザーフォルクの少女の様に、ロニキスには思えた。