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ラティクス、ミリー、イリア、ロニキスの四人が過去のロークという世界で再会を果たした翌日のこと。
彼等はその世界で新たに知り合った仲間達に、彼等自身の今後の目的を告白した。
とは言っても、「自分達は石化病の治療に必要な血清を得る為に、ウィルスの宿主アスモデウスから体液を採取せねばならないのだ」と事実をそのままに説明した訳ではない。未来からやってきた等の込み入った部分で当然かなりの割愛があったのだが、しかし「魔王討伐」の言葉だけでもこの地の人々を驚かせるには事足りた。
その上でラティクスはシウス、アシュレイ、ヨシュア、そしてマーヴェルに尋ねたのだった。これからどうするのか、を。
ラティクス達四人と行動を共にするということは即ち魔王と戦う事を意味する。これは今までの当ての無い旅とは比べ物にならない程の命の危険を伴うものとなるだろう。だが沢山の仲間がいれば心強く、また、この世界本来の住人によってアスモデウスの討伐が為されるのは望ましい事だった。
何故ならばイリア曰く、未来から来たラティクス達がアスモデウスを倒せばパラドックス、時間的矛盾の生じる可能性があるらしく、過去の世界への接触はあくまでも宿主の捕獲と体液採取のみに留めなければならないからであった。本来ならば、ラティクス達は魔王討伐を謳って行動する事が出来ないのである。しかしそれでは人々の強力は得にくい。もしも、その討伐が過去のローク本来の住人によって為される分には問題が起こらないのだが、勿論それは強制してはならないものであった。当然、なし崩し的に引き入れるのも許されない事である。
だから改まって事情を説明し、尋ねる必要があったのだ。
雲を掴むような人捜しから打って変わって突拍子もない事を言い始めたラティクス達に驚き、真意を疑い、或いは面白がって、各人の反応は様々だった。
けれども、誰一人として欠ける者はいなかった。
「でも全く驚きましたよ。はぐれた仲間を捜しているとしか聞いていませんでしたからね。
魔界の王アスモデウスを倒すだなんて、そんな大それた事を考えていたなんて」
イオニスを発つ時分に、ヨシュアが言った。話を聞いた時の驚きがまだ拭い去れていない様で、感心しているのか呆れているのか、それらの混ざった複雑な表情だ。彼の生まれる以前からずっと続いてきた抗争の歴史に終止符を打とうと言うのだから、それが自然な反応か。
「流石に無理に、とは言わないわよ」
血清を得るという目的のある手前、彼を安心させようというイリアの発言であったが、それはあまり慰めになっていなかった。と言うよりも、傍から聞いていると訳が解らない。大体魔王を倒すというのは大きな決意の下に行う類のものであり、大変そうだからやめようか、というものではないのである。だからヨシュアはイリアの言葉を「無理についてこなくてもいい」という意味にとったらしい。
「行ける所まで一緒に行かせて貰います。足を引っ張るようなら自分から身を引きますから」
「相変わらず控えめね」
何となく噛み合っていない会話に耳をそばだてるのを止め、ラティクスは行程の最終確認の方に意識を戻した。
「ヴァン、でしたっけ」
「ああ。正確にはヴァン・イ・イルというらしい。ここから西にある都という話だ」
この世界でのロニキスの出で立ちは、何処で入手したものか白銀の鎧に長弓である。紋章術を使うとミリーから聞いた時にはヨシュアの様な長衣姿を想像したものだったが、体格も悪くないのでこれで帯剣していれば剣士にも見えただろう。
「知っているかね?」
「聞いたことはありますけど、俺自身は行った事はないですよ」
地図を見てみると、そう遠い場所でない。ただ、以前の隣町に出向くことすら頻繁になかった自分からすると今の様な感覚は到底考えられないものであった。ふとそれに気付いたラティクスは苦笑した・・・慣れというのは恐ろしい。そういえば口をつく言葉が《僕》から《俺》にすっかり変化しているのも、シウス達との会話による慣れか。昔は少し気恥ずかしいものだったが・・・不思議なものだ。
「どうした、何か変わったことでも書いてあるかな?」
「いえ、何でもありません。じゃあ行きましょうか、その、ヴァン・イ・イルに」
ミリーと再会してから、どうも旅に出る前の自分と今の自分が同居しているとでも言う様な、奇妙な気分になることがある。ラティクスには、そんな自分が掴みかねている。
遠い昔、雪と氷に閉ざされた白い地には三人の精霊が住んでいた。
ある日のこと、他の土地から人間達が精霊を訪ねてきて乞うた。
「私達には神の御加護が無いのです。だからどうか一緒に来て、私達の神になって下さい」
三人の精霊はとんでもないことだと一様に首を横に振った。それを聞いて人間達は嘆き悲しんだ。
「それではこれから、私達はどうやって生きていけばいいのでしょう。どうか助けては頂けないか」
神の加護を受けていた精霊達はもっともな事だと思い、憐れにも思ったのでこう言った。
「ならば我々は貴方達の世界を祝福しよう」
一人は緑豊けきムーアの地に。
一人は黄砂満ちしアストラルの地に。
一人は紅葉振り積もりしヴァンの地に。
それぞれに降り立ち、人間達の為に舞をした。そして最後に精霊自身の白い地を指し示して言った。
「ここには神の祝福がある。ここも貴方達の世界にするといい」
祝福された精霊の白い地を、喜んだ人間達はシルヴァラントと呼んで神の像を建てた。
紅葉振り積もりしヴァンの地に、今日も更なる紅葉が散る。木々がすっかり葉を落とすほんの一時を除けば、この国は何時でも暖かな色に包まれているのだ。
城の古い記録誌に拠れば、それは精霊の祝福が変わらずにある証だという。
その紅い国の主は今、謁見の間に堂々と座していた。身には勇猛さを象徴する獣の毛皮を纏い、豪奢な冠で頂を飾る代替えに深々と、獣の上顎からそっくり上を剥製にしたものを被っている。山賊さながらの出で立ちに野卑さの全く無いのが、彼が王たる所以であろう。衣服こそ上等な布地で仕立てられていたが、目立った装身具は身に付けられていない。その分、獣頭の瞳に嵌められた一対の宝玉が射し込む陽にヴァン王国を象徴する真紅の光を宿す様が印象的になる。
「神の祝福を受けた地から、魔物が攻めてくるというのも奇妙な話だ」
「・・・神は、気紛れですわ」
隣に座した王妃の言葉の響きは、中々王の気に入るものだった。
「神の気紛れ、か」
「いえ。神《は》気紛れ、ですわ」
彼女は丁寧に夫の言葉を訂正した。紋章術師であり託宣者でもある王妃が言うのだから、間違いはないのだろう。
この助詞の違いに、如何なる重大な意味が含まれているのだろうか。しかし王は直ちにその推測を止めた。遊び心に充ち満ちた託宣者の言葉は概して暗喩や示唆に富んでいるものである。
その起源を隠遁生活の暇潰しという、神聖さとは全く懸け離れた部分に求められる《神託》は、人生そのものを無心の《遊び》として捉える者にしか得られないものである。超常の知識を金や権力の獲得に利用しようという目的意識の高い者には決して神託が下ることがないのだ。つまり託宣者が神託にそれ程の重要性を見出す事はなく、よって彼等はその言葉を第三者に伝えねばならないという意識にも乏しい。だから神託を受けられない者にとっての神託の内容は解りにくく、託宣者が一体何を知っているのかも解らない。
かつては託宣者を捕らえて無理矢理その内容を喋らせようと試みた権力者もあったが、悉く逃げられてしまったという。幾重もの石壁と鉄格子に囲まれた部屋に置いても、何時の間にか姿が消えてしまうらしい。朝には確かにシルヴァラントに囚われていた筈が逃げ出して、昼にはアストラル大陸にあるタトローイの闘技場に参加していたという信じ難い話すら残っている。
この様に謎の多く理解しがたいのが託宣者全般の特徴であり、その中では国を担う立場にある王妃の言葉はかなり解りやすいものなのだが、やはり余程の事態とならない限りは、まともに考えない方が得策なのである。勿論夫婦生活の平和の為、それは王妃に知られてはならない事であったが。
王が託宣者としての王妃の言葉について真面目に解釈せざるを得ない事と言えばただ一つ、それは魔物との戦いに関するものだけであった。
世界の覇者とも言われる四王国は何れも古い歴史を持つ。それは同時に魔物と呼び習わされる異形との抗争の歴史でもあった。魔物が一体何時からこの世界に現れるようになったのかを知る者はないが、今や魔物の起源に疑問を持つ者はない。
魔はただ、北の地、シルヴァラントからやって来て世界中に災厄を振りまくものであった。
最も近年に起きた魔物と人との大きな衝突からはもう三十年の月日が経過していたが、過去の戦いに勝者はなく、そして現在起こっているのは緩慢な侵攻である。小規模な魔物の攻撃は、人々の危機感を煽らないよう静かに行われていた。例えば英雄と呼ばれる指導者達の欠如は士気を低下させて体制の弱体化を招き、交通の閉塞からくる物資や兵の輸送力低下が拍車を掛けている。さながら毒が体内をゆっくりと巡るかの様に、魔物に四王国は蝕まれている。
最初にこの小康状態に疑問を持ったのが、彼、即ちヴァン大陸を統べる国王であった。
それは託宣者を傍に置くという環境の所為だけではない。
シルヴァラント王は余りにも長い間、魔物との激しい戦いに明け暮れていた為に、見せかけの平穏を魔物の撤退と考えた。アストラル王はその居城が堅牢であるが故、主に傭兵の養成と派遣という形で戦いに貢献してきた・・・その為に傭兵の需要の減少を平和の証と考えてしまった。そして直接的な戦禍に曝されたことがないムーア大陸の王は、物的な支援のみを行ってきており魔物の脅威には全く疎いのである。
他国の王とは異なる自らの考えに確信を持てないままに、それでもヴァンの王は触れを出した。戦いが激化していたならば、却って魔王討伐を志す者を募りはしなかっただろう。彼は誰にも説明する事の出来ない危機感を募らせていたのだ、触れを出したのはその補償行為に過ぎない。
当時彼の心を理解していたのは、ただ伴侶のみであった。
その触れを出してからもう、随分と立つ。
最近は他の三人の王達も漸く異変に気付いて、彼の行動に賛同の意を示していた。しかし彼は喜ばしい気分になどなれなかった。つまりそれだけの時間を費やしても、相応しい戦士が見つからなかったという事なのだ。そして未だに四王国は、兵を組織し国を挙げて魔物と戦う状況に至っていない。触れは今も出されたままである。
そして大臣の報告によれば、この日は久々に名乗りをあげた戦士がいた様だ。
「アリシャ、今度の英雄候補殿こそ見込みがあるだろうかね」
何気ない言葉だと知っていただろうに珍しく、王妃の視線が遠いこの世ならざる場所へと投じられた。この行為を託宣者達はふざけて「デンパをジュシンする」と言うものだが、その言葉の一体どこがどの様にふざけているのかもまた、一般人に理解出来るものではない。やがて王妃は戻ってきた。
「大いなる眼が見守る時間軸の違和感がやってきます。
沢山の糸の縺れが時の綻びを作っていますが・・・少なくとも今までの輩とは違う様でしてよ」
他の託宣者に言わせればこんなに明快な言葉を操る託宣者は少ないとの事だが、それでもヴァンの主には意味不明なものであった。王はとりあえず「今までとは違う」という部分だけを取りだして淡い期待を抱くに留めた。
「魔王討伐の志願者というのは貴方達ですか。国王がお待ちです・・・中へどうぞ」
いきなり国王に謁見を申し入れて聞き入れられるのだろうかという不安は、城門の兵士のそつが無い対応によって解消された。歴戦の強者であるアシュレイの存在も一役買ったのだろうが、魔王討伐に名乗りを上げる者もまた案外と少ないらしい。
一行はそれ程待たされず、直ぐに大臣とおぼしき男によって城内に通されていた。
大臣はアシュレイにこそ目を留めたものの、あまり魔王討伐隊には興味が無い様に思われた。彼の意識は、ただ事務的にラティクス達を謁見の場に導く事にのみ注がれている。最初の一瞥以来、彼がこちらをまともに見ることは無く、不思議な事に嫌悪の感情すら、背を向けて黙々と歩く暗緑の長衣の裾に顕れている様だった。
「その者らが話にあった者達か?」
「左様でございます」
謁見の間、玉座から声を掛けられて大臣は漸く口を開いた。そんな不機嫌そうな大臣とは対照的に、王は明朗な声で尋ねる。
「聞けばそなたら、魔界の王アスモデウス討伐に名乗りを上げたそうだな」
「はい」
初めから兵士との交渉を行っていたロニキスが、一行の代表として答えた。王の視線はあからさまではないのだが、それでも値踏みしているのが解る。その視線をイリアは淡々と受け止めている。ヨシュアは神妙な面持ちで王を見返している。シウスはこの様な場に元々慣れている様で、堂々としたものだ。マーヴェルは何時もの表情の薄い顔を全く変えない。アシュレイは説明するまでもなく。本当に緊張しているのはラティクスとミリー位であるらしい。
王は玉座から身を乗り出した。風変わりな冠が輝いて、そのどんな獣にも勝る猛々しさに謁見の間にいた全ての者が気圧される。
「して勝算は如何程のものと考えておるのだ?」
一転して低く尋ねたのは明朗快活な王でなく、魔物の侵攻に耐え、地に伏せじっと機を窺っている決して侮れない者だった。この双肩に国を載せた男は、度重なる英雄失格者の為に寛容さを全く使い果たした表情をしている。返答如何ではこの一行に恐ろしい運命が降り掛かることになるだろうと後方に控えた大臣は戦慄した。だからこの触れに名乗りを上げた者の案内は嫌な仕事なのだ。この国の王は、己が騙されることを決して許さないのだから。・・・さぁ、この者はどう答えるのか?
「わかりません」
探る様な問いにロニキスが臆面無く言い放った言葉は、王や大臣だけでなく仲間達の意図したものとも全く違うものであった。だがロニキスに動じた様子は微塵も無く、却って王の反応を見定めている様子でさえある。本当の事だから委縮せずともよいのだが、それにしても無責任な答だというのが仲間内での一致した意見であろう。けれども王は、満足気に頷いた。
「ここで未知のものに対して絶対と嘯く者であれば直ぐにでも追い返したのだが・・・ふむ、よかろう」
それに安堵した一同に鋭く釘が刺される。
「だがその前に試させてもらうぞ。力を伴わぬようでは話にならんのでな」
大臣がぱっと顔を上げた。
「では数年ぶりに・・・」
「そうだ。この者らを試練の場に案内せよ」
片手を軽く振ると、たちまち兵士達が現れる。
「試練の場?」
思わず首を傾げる者達に、王は元に戻ったよく通る声で応じた。
「行けば判る」
案内に付き従い階段を下り下って辿り着いた先は、薄暗く湿ったまるで洞窟の様な場所であった。地肌が剥き出しになった空間も、兵士が幾人も哨戒に立っている様も、とても城内とは思えない。そこには下ってきた階段を除けば三つの閉ざされた扉があるきりであった。鉄と石とで厳重な封印が為されている。
「まさかここに潜って行くんですか?」
扉の一つを指し尋ねたラティクスに、案内の兵士と共にやってきていた大臣はかぶりを振った。
「そちらの扉ではありません。それはまた後に・・・」
「また後?」
「あ、いえ、こちらのことで・・・とりあえず貴方達の力を知らなければなりません。
そこでこちらの扉から入って出口まで無事辿り着いて見せて下さい。突破できれば、《試し》はそれで終わりです」
「よく解らないけど、試練には二段階あるということかしら?」
「まあ、そう解釈して下さい」
どことなく不審な言動だが、一々問いただしても始まるまい。
それから大臣はこの洞窟、試練の迷宮についての説明を始めた。曰く、ここは天然の洞窟に手を加えたものであり、外から入り込んだ多数の魔物が徘徊しているのだそうである。魔物が足下にいるとなれば、警備の厳しいのにもなるほど納得が行くというものだ。何故この様な場所に城が建てられたのかは不明だが、古来より戦士の腕試しの場として重用されてきたらしい。内部には道標があるから迷うことはないだろう、と言ってから彼は不吉な事を付け加えた。
「とは言っても、最近では中の魔物もすっかり強くなったらしくてここ何組かは行方不明になっています。
ですから無理だと思ったらいつでも戻ってきて構いません。私は、こちらの出口で待っていますので」
「行方不明とは物騒じゃねぇか」
「勿論、嫌ならここで止めてもいいですよ。こちらとしても無理矢理行かせて行方不明になられては寝覚めが悪いですし。いえ、私の寝覚めが悪いだけで王は何とも思わないでしょうが・・・」
何となく馬鹿にした様な物言いにシウスは顔を顰めると、封印を外していた兵士を押しのけて中に入ってしまった。
「ちょっと一人で入ったら危ないよ。マーヴェルさん、行きましょう!」
「え、えぇ・・・」
「ラティもなにぼーっとしてるの!」
「あ、あぁ・・・」
「ミリーの言う通りだな。ここで考えていても始まらん、行こう」
急いでシウスの後に続く一行を見送り、扉がすっかり閉じてもう戻ってこないだろうと確信した所で、大臣は呟いた。
「全く、大丈夫ですかね・・・」
迷宮の名のそぐわず、それはごく普通の洞窟である。所々に生えた水晶が灯火にきらきらと光り、空気は思ったよりも温かい。地中の特徴である。入り口からさして離れない場所で何かの縺れあう音がするので慌ててラティクスとミリーが駆け寄ると、その前に物音は止んだ。広間の様な場所で、シウスは早速魔物に出くわしていた様だ。暗い足下に倒れているのが何なのかは判然としなかったが。ミリーが小言を言う。
「シウスってば直ぐ一人で行っちゃうんだから、駄目じゃない」
「・・・気に食わなくてな。何かあの大臣隠してねぇか?」
「そうだった?」
「また後でとか何とか言ってたやつの事か?」
「そうだラティ、そいつだよ。俺達を行かせたいのか行かせたくないのか、どうもはっきりしねぇと思うんだが」
「・・・皆さん、ここで詮索しても始まらないですよ。とにかく全ては、ここを出たら判るでしょうから」
ヨシュアの指摘の通りであった。しかも広い洞窟に反響した魔物の足音がよく聞こえる。
シウスはぐるりと辺りを見回して頷いた。
「ったく、魔物がうようよしてやがる。こんな所にいたんじゃ格好の標的だぜ」
「・・・おいおい、道はこっちだぞ」
シウスは威勢よく踏み出そうとしたものの、しっかりと順路を確認していたロニキスに早速出鼻を挫かれてしまった。
とりあえず一行は、そのロニキスを先頭に立てて洞窟を進んでみる。
道順となる通路の地面は平坦に慣らされていて歩き易かった。洞窟によく見られる水の流れも無いので、足元は確かだ。これならばどんな魔物が出てきても戦い易いだろう。その中にぽつりぽつりと置かれた道標に従えば、迷わない様になっているらしい。だが彼等は次第にそれどころではなくなってしまった。
角を曲れば魔物、小部屋に入れば魔物、魔物魔物ととにかく魔物が多い。魔物の集会所に迷い込んでしまったかの様なかつてない遭遇率なのである。それらと戦いながらも一行は、【足音を立てるな】という石碑を見れば意味のよく解らないながら大変な努力を払って足音を忍ばせてみたりした。当然、その間にも魔物は次々に襲ってくるので、終いには足音の事など誰もが忘れ去ってしまったのだったが。
戦いながらの前進は遅々として進まない。この魔物の猛攻は、確かに試練であった。洞窟が広いのが却って災いし、すっかり取り囲まれて八人ではとても手が足りない状態が続いている。外と繋がった洞窟とはいえ、城の地下にこれだけの魔物が集まっているなど尋常でない事だが、疑問を感じている暇は無かった。
「お願い、こっち来ないで! プレスッ、プレスッ、プレスゥッ!!」
「ミリー、大丈夫か?!」
「大丈夫じゃない〜っ! プレスプレスプレスプレス!!」
狼の化け物らしきものに取り囲まれ早口にプレスを嵐の如く降らせているミリーを援護に向おうにも、ラティクスもまたサーグェンの次々に飛ばしてくる飛翔剣に取り組むので精一杯である。背後にはアシュレイもいるのだが、お互いに背中を守っている為に迂闊に動くことが出来ない。
「儂のことはいいから、嬢ちゃんの方に行ってやれ!」
「そういう訳には行きませんよ!」
もっと自分に力があれば助けられるのに! ラティクスは精一杯の力で跳躍しサーグェンを袈裟懸けに叩き切ったが、その腕を別の飛翔剣が切り裂いた。まだどこかにいる様だが、疲労で視界が狭くなっていて直ぐに判断できない。だがとにかく此処を動けないことは解る。「誰かミリーの方に回ってくれ!!」辛うじて上げた声に、冷気を纏った透明な宝珠が空を裂いて飛来した。マーヴェルはきちんと壊れた武器の補修を終えていた様だ。或いは買い替えたのかも知れないが、とにかく薙ぎ倒された眼前の魔物にほっとして少女の顔が泣きそうになった。マーヴェルは鉤裂きの目立つ裾を翻して駆け寄ると、冷静に手にした短剣で確実に止めを刺す。
「ここで気を抜いては駄目、次が来るわ」
ミリーの腕をとって進むよう促した。フレアオーブが近づこうとする魔物を牽制する。
その間にミリーは周囲の仲間にキュアオールの癒しの光を送った。やはり彼女の本分は回復なのである。
「ファイアボルト!」
「アイスニードル!」
殿に立つ二人の術師によって作られた高温水蒸気の幕が、後方からやってきたマギウス編隊の視界を奪う。動けなくなった所をすかさず術師の内の一人、ロニキスが射落とした。当て損なったものにはヨシュアのサンダーボルトが見舞われる。
「やりますね」
「そちらこそ」
「ですが、これではきりがありません」
「だな」
後方からは次々に魔物が現れてくる。彼等が食い止めなければならないのだが一体どこからやってくるのか、いかんせん数が多過ぎる。
「ではこれでどうだろうか・・・・・・シャドウボルト!」
地面が水に墨を落とした様な漆黒に染まった。足を踏み入れた者は其処から立ち昇る闇に囚われる術だ。上方から更にやってくるマギウスに長弓の狙いを定めながら、ロニキスはぼやいた。
「まぁ、"歩く奴等"には暫く足止めになるだろう」
「なるほど。では僕も・・・ブリザード!」
マギウスを巻き込んで黒い地面よりも更に広範囲に一帯は白く凍りつき、滑る足場が魔物を阻む。
「やるなあ」
「いえいえ、そちらこそ」
そうやってじりじりと進む一行の中で、最も前方で戦っているのがシウスとイリアであった。
「何なんだこりゃ、倒しても倒してもわいて来やがるぞ!?」
「私に訊かないでよ! もう、後どの位あるのかしら?!」
「俺に訊くなよ!」
「ちょっと!」
「話し掛けんなよ!」
「そうじゃなくて、あれが出口じゃない?!」
クレリックをノックアウトしたイリアの示す先にあった扉には、ヴァン王家の紋章が彫られている。
「いかにもって感じよね!」
「おう。おい後ろのっ、出口はもう直ぐだ!」
「え、本当?」
怒鳴ったシウスに、直ぐ後ろまで走ってきていたミリーが反応した。
「だったらミリー行きますっ。みんな、これからちょっとだけ敵の足止めするからね! でもちょっとだけだから!」
慣れない攻撃呪紋の使い過ぎで呼吸は荒く、言葉遣いにも若干の混乱が見られる。だがミリーはそんな杖に縋る様な状態で更なる呪紋詠唱を始めた。
「え〜い、フィクスクラウドッ!」
ずんっ、と空気そのものが急に重くなる。敵にとっては堪え難い衝撃が掛かっただろう、一瞬にして全ての魔物の動きが止まった。「こいつは凄ぇな」とこれにはシウスも目を剥く。
回復呪紋の多い紋章法術にも、幾つかの大技が存在する。その一つを操っているあたり、ミリーもそれなりに修練を積んでいたのか。とにかくその一瞬の隙に仲間達は魔物の間を縫い、扉へと走った。ちょっとだけ、と言ったミリーの言葉は真実で、彼女の呪紋は直接敵を傷付けるものではなかったらしい。魔物達はやがて動きだしたが、その時には扉はしっかりと閉ざされていた。
「・・・・・・魔除けの紋章が彫られていますね。だから入って来られないのでしょう」
扉を調べたヨシュアが皆を安心させる。
「だが、出口ではない様じゃな」
「うぅ、もう死にそう・・・」
ミリーはその場にへたりこんでいた。
「ここで少し休もう。あれ・・・日の昇る所から?・・・何だろうこれ」
「皆さん、これって何でしょう?」
ラティクスが石碑の文字に目を奪われていると、マーヴェルが先の方で皆を呼んだ。彼女の傍にあるのは石の台に赤い菱形の釦が付けられたものだ。イリアが駆け寄ってそれを調べる。
「何かのスイッチみたいね・・・」
「押してみましょうか。この先の扉がどうしても開かないんです。ここを押したら開くかもしれませんし・・・」
そう言ってマーヴェルが釦を押すと、音を立てて扉が開いた。イリアはそっと先を窺ってみる。左右に通路が延び、対面にはもう一つ、今開けたのと同じような扉があった。
「魔物は・・・いないみたいね・・・あら、この扉も開かないわ」
マーヴェルと一緒に調べてみると、左右の通路にはそれぞれ三つの小部屋が面していることが判った。だが、中には先程のスイッチらしきものがあるだけで、何処かに繋がっている訳でもない。イリアは試しに全ての釦を押してみたが、扉に変化は無かった。マーヴェルはそれを軽く叩いてみる。
「何も起きませんね・・・」
「魔物の次は謎解き? もう、一体どういう仕掛けなのかしら」
「二人とも、休まなくていいのか?」
「あ、艦長」
どうやら先に進めないらしい、と事情を説明する。
「そういえば、日の昇る所から○×○○○××というのがそこに書いてあったが、何か関係があるのかな」
ロニキスはラティクスの見つけた石碑の文句をそらで言うと、東はどちらだろうと尋ねた。
「・・・○×がスイッチのオンオフに対応していると?」
「まぁ、それ位しか考えられないしなあ・・・中央の○は最初のスイッチの事だろうし」
東がどちらかは分からなかったものの、三人で手分けして何度かスイッチを動かしてみると扉は開いた。すごいですね、とマーヴェルが素直に褒めるのに照れるロニキスへ(非常に)軽く肘鉄を入れてから、イリアは他の仲間の様子を見に行く。既に全員が、傷の手当てを終えていた。
「もう動けそう?」
「俺達はみんな平気です。でもミリーが・・・」
「私だって大丈夫よ、ラティ。それにこんな場所に長く居たくないわ」
ブラックベリィで回復した筈のミリーの具合はまだ悪そうだったが、ラティクスの手を借りて立ち上がるとその足取りはしっかりとしていた。
「それじゃ、行きましょう」
その時、遥か先で閃いた光が扉から長く射し込んだ。そして轟音。
「敵だ!」
遠くから響いてきた声に、ラティクス達は駆け出した。
二つの扉の先には、見上げる程に高い天井を持つ空間が広がり、何か大きなものが浮かんでいる。だがそれが一体何なのかは闇に紛れて判らなかった。逸早く駆けつけたシウスが見上げると頬を何かが擦り、生暖かい血の流れる感触がした。
前に立っていたマーヴェルのレイヴンオーブが闇に吸い込まれる、苦悶の啼き声が耳が痛い程反響する。
「なんだこいつは?!」
「どうやらこれが本当の"試練"らしい!」
ロニキスが閃光呪紋を放ち、その正体が一瞬照らし出される。さっきの光もまた彼の呪紋であった様だ。
そこには呪紋のダメージの為かやや高度を下げつつある漆黒の翼の巨鳥が羽ばたいていた。翼を激しく打つ度に小さな鎌鼬が生まれ、周りの者を切り刻もうとするのである。手の甲で血を拭うとシウスは不敵に笑った。
「ははぁ、正体がわかりゃ大した事ぁねぇ。こんな奴焼き鳥にしてやるぜ。おいラティ、行くぞ!」
「ああ!」
心得たラティクスが空破斬を食らわせると、巨鳥はバランスを崩して地面に激突する。地上では鋭い嘴が凶器となったが、乱戦を切り抜けてきたばかりの二人にはそれは緩慢な動きとしか映らなかった。
その頃、大臣は果たして挑戦者達が無事に出てくるのかとはらはらしながら待っていた。色々と事情を知る身としては、出てきて欲しいような出てきて欲しくない様な複雑な心境なのだ。出来ればうっかり出口を間違えて城の外に出てくれるのが、大臣としては一番嬉しい結果なのだが、多分そんな事にはならないだろう。それに出てこなければ十中八九、中で力尽きたという事だ。娘と同じ年の頃の法術師もいたので寝覚は最悪になるだろう。しかし出てくれば、次の試練へと案内しなければならない。
いかに国の平和の為に仕方の無い事とはいえ・・・と忙しなく行ったり来たりを繰り返していると、扉の向こう側で凄まじい地響きが聞こえ、やがて勢いよく空色の髪の青年が扉から現れた。その青年は大臣の顔を見ると、間抜けな質問をした。
「あれ、ここは、出口ですよね?」
「ええそうです。まさか、本当にこの迷宮から抜けてくるとは!」
大臣を何よりも驚かせたのは、青年に続く全員が大した怪我も負わずに出てきた事であった。この者達なら或いは・・・と、彼は微かな希望を持つ。そして彼は素直に称賛を送った。
「見事です。それでは上の部屋で暫し休息を取っていて下さい。治療が必要なら申し出て下さい。
私は王に知らせて参ります!」
それから一刻も経った頃、大臣は休息用に宛てがわれた部屋にやって来るとラティクス達を次の場所へと案内した。それは試練の迷宮入り口の隣にあった扉、最初にラティクスが入ろうとした場所である。
「こちらです」
すっかり改まった大臣に言われるまま中に入る。そこは中央に何か細長いものが安置されているだけの、他には何もない、だがとても広い部屋だった。中央のそれは一見して人の背丈よりも大きいことが判る。何故ならその隣には先客が立っていた為だ。
「そなたら、全く凄いものだな。あの迷宮を抜けてくるとは並の腕ではあるまい・・・その実力、しかと確かめさせてもらったぞ」
「・・・ここで我々は一体何をすればいいのですか?」
「そなたロニキスと言ったか。そう急くな。まあ、これを見るがいい」
一同を近くに集めた王は、自分の背よりも幾分大きいそれから、ゆっくりと橙色の掛け布を取り去った。
「アシュレイ殿は見覚えもあろうが」
現れたのは赤錆の浮いた銀色の破片を継ぎ合わせたものであった。五ヶ所の金の留め具で、不可思議な意匠の青白い輝きを発する枠に固定されている。石の台座に置かれているそれを眼にした途端に、アシュレイの表情が険しくなった。
「まさか、現身の鏡の欠片か。王よ、何故城の礎にこの様な呪われた物を!」
「そなたには悪いと思ったが、興味があったからだ。魔鏡と知っても何か使い道はあろうと思ってな」
王は微かに済まなそうな顔をしたが、先を続けた。
「知っている者もある様だが、説明しておこう。
現身の鏡とは魔王の創りし鏡。その者の邪悪なる半身を生み出す魔鏡の事だ。
これはアシュレイ殿の砕いた魔鏡の破片を清めた銀で繋ぎあわせたものだが、そう脅えることはない。もう姿を映しただけでは何も起こりはしないのだからな」
灯火を反射して油でも湛えた様な粘り気のある光を発するそれの前に立ち、堂々とした姿の一端を映して王は言った。それを見たヨシュアがはっとして言った。
「禍々しい力・・・そうか、この力に迷宮の魔物達は引き寄せられていたのか!」
「その通りだ、この鏡の所為で迷宮の封印を何重にもせねばならなくなった。今の迷宮の危険さは昔の比になどなろう筈がない。その迷宮を突破したそなたらだからこそ、信用出来るというものだがな」
「これが現身の鏡・・・真紅の盾を造り出した・・・」
マーヴェルは唇を噛み、鏡を睨み付ける。そして王を見つめると問うた。
「それで、私達への試練とは一体何なのです?!」
「この現身の鏡の映し出す己自身と戦い、勝つ事だ」
「何故そんな事を?」
「魔鏡は魔物を取り込まぬからだ。人と魔物との判別には丁度よいのだよ。
そなたらを疑う訳ではないが、国の命運を託す以上は念には念を入れなくてはならぬ。だがこの鏡の魔力はもうすっかり衰えているのだ。試すのは一人だけだから安心するがいい。さて、誰がやる?」
王の恐ろしい言葉に、誰もがその真意を理解することが出来なかった。魔王の力を借りてまで己自身の影と何故戦う必要があるのか・・・これが、大臣でさえもこの試練を躊躇った理由だ。そして、大臣は王の考えを誰にも知られたくなかったからこそ、ラティクス達の帰還を素直に願えなかったのだ。
ふと、おかしな事に気付いたロニキスが尋ねる。
「しかし、その鏡は既に力を失っていると仰られたではないですか」
「映すだけならば。だが触れればあと一人位はこの鏡にも生み出すことが出来るだろう。
断っておくが、その力は本体と互角のものだ。そして・・・互角の者と戦うのに中々大変な事だ」
「・・・やります」
無意識の内に、ラティクスは王の前に進み出ていた。シウスは何かを言おうとしたが、直ぐに止める。ミリーが叫んだ。
「ちょっとラティ、本気なの? どうなるか解らないんだよ?!」
「どうせ誰かがやらなきゃならないんだし・・・それに俺、自分と戦えるっていうのに興味があるからさ」
「そんな事言ったって・・・・・・」
大丈夫、と頷くラティクスに、ロニキスが困った様に尋ねる。
「本当にいいのか? 私としては無理矢理決めたくはないのだが」
「いえ、俺が自分で戦ってみたいと思ったんです・・・駄目ですか?」
周囲の、仲間一人一人の目を見る。ミリーは不安で一杯の表情をしていたが、誰も反対しなかった。
王が念を押した。
「よいのだな?」
「はい」
「では、鏡に触れるがよい」
促されてラティクスはゆっくりと手を伸ばしたが、息を呑んで見守っている仲間にとってそれがゆっくり過ぎるということはなかった。鏡の外と内、一対の指先が滑らかに近づき遂に冷え切った鏡面に触れる。淡い輝きが漏れ出し、鏡の周囲に薄くわだかまり始めた。
「王、お下がりください。貴方達も。巻き込まれますよ!」
大臣が慌てて主君を魔鏡から遠ざけた。
「力が失われているから、少し時間が掛かるやも知れぬ。
自らの影に引き込まれたら、それで仕舞いだ・・・気を付けろ!」
その言葉の切れるか切れないかの内に、鏡向こうの手が、何の前触れもなく突き出されてラティクスの手首を掴んだ。強く引っ張られてたたらを踏む。逆に両腕を強く引っ張ると、水面から顔を出す様に、それは自然な動作で歪んだ鏡の中から抜け出した。
同じ顔、同じ鎧。鏡の性質故に左右対称の姿だが、じっくり見比べない限りは本物と全く区別の付かないラティクスの影がそこにはいた。そしてラティクス自身を認めて、笑みを浮かべる。それは自分にそんな表情が出来たのかと感心する程の、実に凶悪なものだった。
「おいおい嘘だろ?」
シウスが目を見開き、イリアが呆然と首を横に振った。
「これが現実に起こっている事だなんて、信じられない!」
「まるでドッペルゲンガーだ・・・確かあれを見た者は・・・」
「艦長止めて下さい、縁起でもない!」
実際その時、ラティクスは余りにも異常な状況にくらくらとしていた。それは余りに大きな隙だったのだ。影は前触れ無く握っていたラティクスの手首に力を込めると、彼を軽々と地面に叩きつけた。背中を強打してラティクスの目の前が真っ白になる。辛うじてミリーの悲鳴で状況が解る。影が剣を抜き放ち襲い掛かってきたのだった。
反射的に身を起こすと跳躍して勘で間合いを取った。遅れて視界が回復してくると、そこには既に自分の鏡像が迫っている。
ギィィンッ!
ぎりぎり間に合った刀身がこれ程心細く見えることもあるまい。
本体と影とは薄暗い中に幾度も幾度も火花を散らす。今迄戦ったどんな魔物よりも苛烈な攻撃に、ラティクスの足は自然と後退していた。間近の影の顔を見るのは恐怖に他ならなかったのだ。しかも自分を倒したくて仕方のなさそうな自分の顔が、とてつもなく嫌なものにラティクスには思えた。
「これが、俺自身なのか?」
「ソウダ」
影が囁く。
「俺もこんな顔をしているのか?!」
「ソウダ!」
更に数合斬り結んでいる内に、何時の間にか、影は巧妙にラティクスを鏡へと追い詰めていた。ラティクスは影に押されていたのである。それは影がラティクスよりも強いということなのか、それとも・・・。
背中から吹きつける魔鏡の冷たい気配にぞっとしたラティクスを、対峙する影が嗤った。
「何ヲ迷ッテイルンダ?」
「俺は迷ってなんかない!」
「迷ッテイルサ、自分ガ影ダトヤット気付イタンダカラナ」
「な、何を・・・」
意に反して手元が震え、影の攻撃に不覚にも長剣を取り落としそうになる。
「君ハ自分ノ力ノ無サヲ何ヨリモ嫌ッテイタダロウ。ソレハ君ガチカラノ無イ影ダッタカラサ」
「違う、違う、影はお前だ!」
「ジャアドウシテ君ノ手ハ震エテイルンダ? ダカラ大人シク鏡ノ中ニ戻ッテシマエバイイジャナイカ。ソレデ楽ニナレルンダ、自分ト戦ウ必要ナンテ何処ニモ無イダロウ? 君ハ何ノチカラモ持タナイ影ナンダ、影ハ影ラシク鏡ノ中ニダケ在レバイイ!」
目の前の自分の声が奇妙なものに聞こえる、まるで自分のものではない様だ。そんな事を考えるラティクスの手はおそろしく震えていた。目の前のラティクスが一体何を言っているのかが、どうしようもなく解ってしまうからだ。その、多分影であるラティクスが攻撃の手を休めているのは・・・多分本体のラティクスを鏡の中に入れてしまいたいから、なのだろう。
相手が一歩踏みだす。自分は一歩下がる。その分、鏡面が近づく。
「何なんだよあれはっ、もう見てられねぇ!」
瓜二つの影と本体だが、周囲の者達がそれを見間違うことは無い。気配で明らかに判るからだが、それ故に見守る側は気が気でない。シウスなどは今にも飛び出しそうな勢いである。
「待てシウス、手出しはならぬ」
「放せじーさんっ!!」
しかしアシュレイはシウスの肩から手を外そうとはしなかった。
「いいかシウス、現身の鏡が作るのは悪夢そのものじゃ・・・しかし影の姿に惑わされずに己を保つことが出来た時、そこから得られるのは途方もない成長だ・・・!」
「だからって死んじまったら元も子もっ・・・」
肩に食い込む節ばった指に、シウスは力を抜いた。
「・・・・・・いや、ラティはそんなタマじゃねぇよな。解った、・・・あいつを信じるぜ」
「そうじゃ。ラティは己の影に惑わされる程、弱くない筈・・・そうでなければ・・・」
儂はあ奴を選ぶまい、とアシュレイは心の中だけで呟いた。
随分近い場所に在る、異常な程力強い自分の瞳。ラティクスは本当に鏡に沈み込んでしまいたい気分になった。マルトスを、ドーンを救えなかったのは自分の所為だったのか。あの伝染病は、影であった自分の願いが創りだした惨禍だったのだろうか。すると目の前の自分は当然だと請け合った。
「ソウサ、影ガ退屈ハ嫌ダナンテ考エルカラドーンハ石ニナッタンダ! オ前ガ影ダカラ影ダカラ影ダカラ!!」
言葉の圧力に押されてラティクスが鏡に向ってのけ反りかけた時、
『何言ってるの? 関係ある訳無いでしょ?』
ふとそんな言葉が彼の脳裏を過った。
途端に震えが止まり、ラティクスはその手にした武器を後方に、渾身の力を込めて突き入れた。
鏡は、割れた。
「・・・やっぱり、影はお前だよ」
だがしかし、影はいよいよ勝ち誇った笑みでこれに応じる。
「ソウカ? ジャア影ノオ前ニハコンナ技ガ使エルカ?」
そしてラティクスを襲ったのは、途方もなく熱く燃え盛る一撃だった。咄嗟に躱すも、余りに信じられない思いに頭の中が真っ白になる。
「この技は・・・奥義の・・・!」
「ソウダ、オ前ノ知ラナイ技。ダガ俺ハ知ッテイル。コレハ朱雀《衝》撃破!」
視界が真っ赤に染まった。
「いや、ラティ〜〜〜〜ッッ!!」
遠くの方でミリーの声が聞こえなくなる。天地の感覚が消失し、意識もまた遠のいていく。
「アシュレイさん、あんな技、ラティは使えないよ?!
影の方が実力があるなんて事があるの? 力は互角なんでしょうっねぇアシュレイさんっっ?!」
「ミリーちゃん、落ち着いて!」
「だって、このままじゃラティがっラティがっっ!」
半狂乱になっているミリーをイリアが宥めるが、静まる筈が無い。
「これは一体どういう・・・」
「・・・影は能力の全てを発揮して戦っているんじゃ。迷いが無いからの」
「そして影は本体の忘れた事をも知っている。だから、強い」
「王、あなたは何という事をしたのか解っておるのですか?!」
隣にやってきたヴァン王に、遂にアシュレイも語気を荒くする。
「解っているとも、自分で試してもみた・・・結果、倒せたがな」
「自ら試し、そして影を倒したというのか?! 本当に、何という方だ・・・」
アシュレイ頭を抱えた。ヴァン国王は代々何かしらの武勇伝を作りだすものだが、魔鏡の影を倒したなどとは訊いたこともない。その偉業を成し遂げたヴァン王は、沈痛な面持ちで倒れたラティクスを見遣った。
「解ってくれ・・・影に負ける様な者に、魔王討伐は任せられんのだ。
・・・失敗は許されないのだ。四王国の命運全てを懸けるのだから」
「四王国の、命運?」
「影があの者の知らない技を使える筈が無いのだ。あの者が真に強ければ、必ずや思い出す筈。
そして、影に勝ることが出来るだろう」
「でもせめて、回復呪紋をかけさせて下さい! じゃないとラティが・・・っ!」
しかし非情にもヴァン王はそれを許さなかった。
「信じよ」とただその一言だけを、少女に与えただけだった。
ラティクスの意識は今、一番平和だった頃の光景を視ていた。父が居て母が居て、ミリーもドーンも、ドーンの妹も居た・・・その頃、父には毎日の様に剣の稽古をつけてもらっていたのだった。教えて貰えることはまだそれ程多くはなかったが、呑み込みの早かった息子に父は時折はっとする程高度な技を見せてやることがあった。その頃のラティクス自身がそうと自覚する事は無かったが、父はエダール剣術の達人だったのだ。
自分はただ無邪気にその華麗な技を目にすることを喜んでいた。自分が父に及ばないとか弱いとか、そんな事は一切考えずに。ただ、父がとても格好良く見える事が嬉しかったのだ。その真剣さ、ひたむきさ、強さをただ、誇りに思って。
「そうだ!」
ラティクスは眼を見開いた。
そうだ、自分は知っていた・・・父が龍の鳳の気を纏って繰り出した一撃を。
四聖獣奥義の真髄を。
あの尊敬していた父の姿を、どうして忘れてしまったのだろう?
身を起こす。影は止めを刺そうと技の構えをとっているが、気を失っていたのはほんの短い時間だった様だ。
「倒レテイレバ楽ニ逝ケタモノヲ!」
その自分の影は、よく見ると所詮薄っぺらな影に過ぎなかった。何故それを最初に見抜くことが出来なかったのか。
それはラティクス自身の中に自分への迷いが在ったから、弱さが在ったから。
そして弱い自分を認められない、常に父に引け目を感じるという、弱さがあったからだ。
全身を血が脈を打って駆け巡る。頭が冴え渡り、父の思い出と共に忘れていた動作の一つ一つを身体の中から呼び起こしていく。
「奥義っ!」
ラティクスは力の限り吼えた。
「蒼龍《醒》雷斬っっっ!!」