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イオニス。この町には実に沢山の店が出されている。主に売られているのものは、絵画、細工物などの芸術品と、それらの材料になるもの。店頭に並べられる種々雑多なそれらは正に玉石混合であり、故に客には審美眼や本質を見抜く目が必要とされるのだが。
空は快晴で沈み始めた太陽の放つ西日が燦然と町を照らしている時刻であったが、窓に乏しい店内は薄暗かった。薬品と薬草と古書の入り混じった独特の匂いは年季の入った飴色の戸棚や一枚板のカウンターに染み込んで、明るい外から客が入ってきたならば、別の世界に迷い込んでしまった印象を受けるだろう。店というにはひっそりとし過ぎており、威勢の良い売り子の口上や愛想とは全く無縁の空間であった。
その店はイオニスに数多くある錬金屋の一つであって、小さな建物は作業場と注文を受ける場所とに分かれており、沢山の硝子器具に囲まれて老人が一人安楽椅子で居眠りをしていた。錬金屋の品物は往々にして道具屋や鉱物屋で購入するより値が張るが、天然では入手しにくい貴石や貴金属の類であっても大抵のものが揃うので客は絶えない。と言ってもそれは錬金屋一般の話であって、この店が繁盛しているかというと定かではなかったりする。
しかし、それでも店は店であって、『春夏冬中』の札が出る以上は店番がいるものだ。
殿様商売で日がな一日眠っている店主の代わりに最近番を勤めているのは、どこからともなく流れてきた一人の旅人だった。この御時世に旅をするなどいかに冒険者と言えど物好きとしか言いようがなかったが、日々強さを増してくる魔物の前に流石に腰を落ち着けようと考えたのか、老人の頼みに快く応じてつまらない仕事でもきちんとこなしている。
男の連れは一人の少女で、彼等は人を探しているのだ、と言う。
だから、と店主は考えている。
きっと、時期が来れば新しい店番を探さなければならない。しかもそれは、さして遠い日ではないだろう。老い先短い人生よりも、若い連中の行動は更に短い時間で起こされる。ひょっとしたら明日か明後日か、そんなに急がずとも一日の長さは変わりやしないというのに。
店主が浅い眠りの海を漂っている内にも、橙の混じり始めた光線が、窓を塞ぐ様に置かれている戸棚の隙間から辛うじて射し込んでくる。
件の店番は空中を凝視していた。心ここに在らず、といった風情であり、何か考え事をしているのだろう。幸い(?)にして人が訪れる気配は皆無で思索の時間に事欠くことはなく、彼の溜め息や、自覚せずに時折洩れ出る独言が誰彼の耳に入ったりもしなかった。
全く、薄暗い空間は考え事をするのに最適な場所だった。
彼は色々な事を考えていた。これからどうやってイリアやラティクスを探せばいいのだろう、とか、ここから同じ位の距離にある王都と港町のどちらに向かうべきなのだろう、とか、ひょっとしたら自分がこんな所で足止めをくっている間にも第三勢力がウィルスを入手しているのではないか、その際にもしも魔王が第三勢力の手によって仕留められてしまっていたなら、等々・・・苦労人の考えるべき問題は山積み状態だ。が、いかに思案事項が大量にあろうとも次第に厭きてくるというもの。頭は最重要項目を放り出してしばしば脇道に逸れる。
そんな一つの取るに足らない思案事項の検討を、彼は現在行なっている最中であった。
トライア様は力を貸してくれるはずだ、と目の前の彼女は言った。
神。こんな言葉を命題としたことが、過去に幾度あったというのだろうか。恐らくは片手で収まる数に違いない。自分は、この時代にあっても未だ根強く残っている諸宗教の原理主義者ではないのだから。
創造神、造物主。惑星ロークでは極めて自然に理解され信仰されている神が、力を行使しているのだという。しかし、人は神から生じたのではなく、単なる物質進化の末に生まれた・・・生命の成れの果てに過ぎないのではなかったか?
そうして、人は自らを支える為に偶像を創りだしたのではなかったか?
形であり言葉である、思想としての偶像。それこそがロニキスの知る神であって、彼が少女の姿を見て密かに定めた『「神」と呼ばれるものを知ってみよう』という決意は、神を信じるのと同義では決してない。彼が切実に神を求めた時に、神は彼を救ってはくれなかった。
ロニキスとて人だ。己の無力さを、一つの存在である己を越える、圧倒的な力があることが認められないわけではない。
見えないものを信じられないわけではない。いつでも其処に可能性があること位、解っている。深宇宙探査に携わったことのある者ならば、世の中がいかに『知られていないこと』に満ちているのか、身にしみていることだろう。彼にしても、その例外ではない。宇宙は余りにも広いのだから。
現に、今ここにいるのも驚異的な技術、時空門の守護者に依る、驚異的な力の行使の末のことである。
彼は(あえて彼と呼ぼう)、現在もロニキスの精神とは接続状態にある筈だ。然るべき時空に還る時が来たならば、三百年後の惑星ストリームへとロニキスとその仲間達を連れて行くことだろう。ひょっとしたら彼こそが、ある意味で神だと言えるのかもしれない。
だから神と称され得る『誰かさん』の存在を否定するつもりはないのである。だが、自分は『神』など信じない。信じたくない。いや、信じるものか。運命を決定し得る存在など、唯一でも、絶対でも、そんなのは知ったことか。
・・・が、だとすればミリーの言う創造神とは何者なのだろう。
自分に世界の成り立ちを考えられるだけの知識、その持ち合わせが無いことなど重々解っているが、ロニキスは考えずにはいられなかった。純粋な知的好奇心として。
もしも『誰か』が在るのなら、その存在を証明して見せてみろ。
彼は頬杖をついたまま、もうすっかり暗記してしまった指の動きと小さな呟きを空に放った。何の期待もしていなかった、一連の動作。どうせ何が起こる筈もなく・・・
その人さし指の先から、何の前触れもなく光が散った。
倦怠感の中で閉じかけていた眼を、ロニキスは見開いた。
何なのだこの感覚は。
外からではなく、身の裡に生まれ指先に抜けていったものは何か。網膜に捉えた光は、既に空中に溶け込んだ後だった。残像だけが焼き付いて負の補色を残している。
だが今のは夢ではなかった。
もう一度。
震え出しそうな腕を堪え、ミリーの言葉を思い出す。
『一番大切なのは呪紋を唱えることで、それに合わせて決められた形を描いていきます。意識は額の辺りに集中してやっぱり紋章を思い浮かべて・・・』
今まで自分はこの力を何だと思っていたか。初めはESP(Extrasensory Perception)に分類される能力の一種、つまり五感以外の感覚であると考えていた。紋章術とは、自己の能力の発現であるのだと思っていたのだ。呪紋も紋章も、単なる精神統一の手段。そして、得体の知れない能力が様々なものを生み出していく・・・神もルーンも、手段としての偶像だと信じて疑わなかった。だからこそ、地球人はロ−ク人とは異質なものであったのだ。
ロニキスはその精神統一の方法を得る為に、ミリーの期待に応えなければならないという大義名分の下に、惑星ロ−クの神話を読み、伝説を読み、偶像を知ろうとした。紋章術を試みる時は、あるかどうかも判らない自らの能力を引き出してみようとしていた。
それは間違いだったのか。
あくまで個人としての力ではなく、神の力の顕在化であるのか。『マナの祝福』という先天性能力が関係しているのは確かな事実である様だが、それは、神に呼びかける能力に他ならないのだろうか。
何一つ理解出来なかった中で、ただ一つだけの事を彼は悟った。
きっと自分は、これからの人生を神という命題と共に歩いていかねばならないのだということを。
--------- What the hell is that!
彼は溜息をついた。『誰かさん』の掌上で踊らされるのだけは、真っ平御免であった。
太陽はすっかり地平線の彼方に沈み、夕闇が町には降りていた。商い人達はその日の商売を次々に切り上げ、路地に溢れていた喧騒の波も引く。この時分からは、酒場が賑わい始める頃である。
しかし小さな錬金屋の看板はいまだ降ろされないままで、少々遅すぎるかもしれない本日一人目の客は、足を踏み入れてみて少々驚いたらしかった。
爪の先程の小さな光が数えきれない程に店内を浮遊し、あたかも聖域に迷い込んだ様であったのだから、無理もない。光の渦の中心には、今まさに新しい星屑を指先から放った男が何事かを呟いている。
客は一言も発さなかったが、背中で閉まった扉の土鈴が柔らかくその来客を告げた。
ロニキスは顔を上げた。そして気まずそうな顔をする。
「あ、すいませんね。紋章術の練習中だったものでして・・・」
間が空いた。
顔を上げたロニキスが客を目にした時に抱いたのは、人外のものが訪れたのではないか、という困惑であった。何故ならば余りにも美しい女性が、実にひっそりと佇んでいたので。
彼自身が紋章の力を確かめるために作り出していた無数の小さな光源が、女性を照らしている。後ろに上げて纏めてある漆黒の髪は、艶やかで角度によっては仄かに紫色を帯びた。伏し目がちの整い過ぎるほど整った貌は、すらりとした身体に載っている。
ロニキスが次の言葉を紡げなかったのは、その美しさが余りにも静かであり、完成しており、外界との接触が拒絶されている印象すら受けたからであった。
「営業中ですか」
何の表情も読み取ることの出来ない、美しい仮面の様な顔を傾げて客は訊いた。人を寄せ付けない氷壁の麗しさからの問は、意外に可愛らしい声であった。それだけがこの場にそぐわず、故に、美の完成による拒絶を打ち消した。
「あ、あぁ・・・そうですよ。そろそろ閉める時間かもしれないが・・・」
ランプに炎を入れながら、彼は答えた。温かい光が紋章の小さな光を凌駕し、店内は普通の様子を取り戻す。それでも、女性の美しさはなんら変わることがなかったが。
「造ってほしいものがあるんですが、形は決められますか?」
「単純な形に限られるが、多少なら」
「真球なのですが」
「真球。普通の球でなくて?」
「はい」
占い師の用いる水晶球の注文は受けたことがあったが、真球となると話は別である。完璧な球である真球を細工で作ることはほぼ不可能だが、練金によって形成する難易度も似たようなものだ。僅かの間思案してから、ロニキスは答えた。
「多分、難しいな」
「そうですか・・・」
彼女は残念な様な、少し失望したかの様な声を出した。その様子が途方に暮れた幼子に似て、慌てロニキスは付け加える。
「時間をかければ、ある程度までの玉は作れるだろうが・・・真球となると、確実に作れる保証は・・・ちょっと待ってもらえるかな。訊いてくるから」
折角の客でもある。店番として雇われている以上、取れる注文は取らねばならないだろうと、ロニキスは奥の老人を揺すり起こして女性の質問を繰り返した。
「・・・やはり保証は出来ないそうだ。すまないな」
しかし戻ってきたロニキスに、意外にも客はこの店で注文する旨を伝えた。
「じゃあそれでも構いませんので、水晶を一つと、虹金剛石を一つ、お願いします。出来る限り、真球に近く作って貰えればいいですから」
女性は二つの鉱物の大きさを示したが、とても宝飾用とは思えないかなり大きなものであった。当然、それなりの値段となり、それは到底庶民の手の届く様なものではない。
「これだと相当値が張るが・・・」
十万フォルという正当でありながら、一見法外に思える見積もりを見ても、彼女は眉一つ動かさずに頷いた。
「構いません。お願いします」
まったく奇妙なものを注文する客ではある。しかしここはイオニスだ。きっと、芸術家か何かなのだろう。ロニキスは勝手に納得することにした。
「名前の方は?」
前金の二万フォルをカウンターに置いた客に向かって尋ねると、どうやらぼんやりとしていたらしい。
「エ、あぁ・・・マーヴェル。マーヴェル=フローズンです」
土鈴の音が女性を送り出した後、ロニキスは記入した注文票を練金術師の老人の元に持って行こうと立ち上がった。それから思い直して、まずは営業中の札を取り外すべく表へ出た。
冷たい風が吹き付け、その時彼は、女性がひどく軽装であったことに気が付いた。
どうやら今日は、奇妙な事が起こり過ぎたらしい。
最近は宿代も順調に支払えるようになり、昨今のミリ−は炎のアルバイターとして看板娘を続行中であった。
「地鶏串焼き、三皿追加お願いしまーす!」
白いエプロンを翻し厨房に向けてこう叫んだ少女は、次の注文を取るべく、たった今席についたばかりの客の方に向かった。満面の営業スマイルで尋ねる。
「お客様、ご注文は?」
夜も更けた頃、宿屋の一室でははしゃいだ声と拍手とが響き渡っていた。
「すごいすごい、使える様になったんですね、紋章術!」
流石に建物の中で攻撃呪紋を試してみるわけにもいかなかったので、まるで馬鹿の一つ覚えだな、と思いながらロニキスがミリ−に披露した例の紋章術に、彼女は手を打って喜んだ。
「それじゃ、これからしなきゃならない事は、属性の見極めですね。あとは法術が使えるかどうかも確認とりましょう!」
「そ、そうだな。
それでだな・・・色々と考えてみたんだが、そろそろこの町を出てもいい頃合いだと思うのだが・・・どうだろうか?」
彼女は少し驚いた様に目を見開いた。だが予期していなかったわけではないらしく、直ぐに頷く。
「私もそろそろラティ達を探しに行きたいと思ってました。色んな人に聞いてみたんですけど、今は少し波が引いてるらしいんですよ。行くんだったら、今、ですよね。やっぱり」
「そうだろうな」
魔物の出現率や攻撃性の強さにも多少の増減はある。それを勘案して旅の計画を立てるのも、安全を考えれば当然の事だ。武器防具を調達し、多少の自己研鑽と情報収集とによって心の準備も出来た頃であった
「ロニキスさんも紋章術が使えるようになったことですし、これで百人力ですよ」
「・・・大して頼りにならんぞ。案外、これしか使えないかもしれんし・・・」
「まっさかぁ」
くすくすと笑いながら、ミリーが香草茶を淹れてくれた。それから思い出した風に言う。
「あ、そうそう・・・関係無いんですけど今日、すっごい綺麗な人をみちゃったんですよ。
足首なんてこーんなに細くて、お人形さんみたいなんです」
こーんな、という部分に力を込める。
「綺麗なひと?」
その時、ロニキスの頭には今日店を訪れた客の姿が思い浮かんだ。
「・・・それなら私も見たぞ。足首はこれ位で、やはり整った顔をしていたな」
「じゃ、同じ人ですね。あ〜あ、もう一回見たいなぁ・・・」
「見たいって、見世物じゃないからな」
「だって綺麗なんですよ!」
ミリ−は当たり前の様に主張した。
「ロニキスさんだって綺麗な人はいいと思いません?憧れちゃいますよ」
「しかし美人は三日で飽きるとも言うが・・・」
「そんなこと無いです!」
彼女は溜め息をつき、その女性の美しさについて説明し始めた。いわく、綺麗な肌、形の良い唇、長い睫毛・・・まるでアイドル扱いである。あまりにも彼女がその『綺麗な人』にこだわっているようであったので、思わずロニキスは決定的な台詞を口に出してしまった。
「それならば、明後日にでも店に来れば会えるかも知れないぞ。きっと今日の客だからな」
「本当ですか?!じゃあそうします」
「いや、だが、明後日だぞ。この町を出るんじゃなかったのか?」
「それなら見てから出発しましょうね!」
勢いに呑まれてうっかり教えてしまったが、これで本当に良かったのだろうかと一握の不安を抱いたロニキスであった。現に出発の日取りは明後日になってしまったのである。
ちなみにこれからの行動計画について、ヴァン王都が魔王討伐の為に強者を募っている点にロニキスは注目していた。ラティクス達がそこを目指して来る可能性はある。示し合わせたわけではなかったが、イリアであっても同じ様に考えるだろうという確信が彼にはあった。
明後日、その辺りの計画が全部狂って、まさかエグダートに行く羽目になるとは・・・苦労人の考えるべき問題は、いつになっても山積み状態なのである。