3
来たよ、我欲の強い人間が。
滅び去った民の恩を忘れた人間が。
私達は契約を守り続けているというのに、その存在すらも忘れていく者達が。
そして私達もまた、忘れ去られていくのだろうか。
少し力を込めると、扉は重い音を立てながらも直ぐに開く。長い間放置されていたことを考えれば、その扉の感触は軽すぎると言ってもよい程であった。細目に開いた隙間からは淀んでいた空気のひんやりとした匂いと共に、異様な雰囲気が流れ出したが、真闇の可能性を考えて取り出しておいたカンテラの必要は無かった。何故ならば光もまた、扉の内側には存在していたからである。
五人の足音は高い天井に谺する。上方へと視線を投じれば数多の燭台が紫の光を放っており、薄く埃を被った床石を仄かに照らし出していた。扉の外にも同じように灯が置かれていたが、この炎は一体何の為に灯され続けているのだろうか。隠された神殿の入り口が閉じられてから恐らく最初の参拝者となったであろうラティクス達は、敵地に足を踏み入れるのとはまた別の緊張を感じていた。
背筋がむず痒くなるような感覚に、シウスは背中の得物を確かめる。いつでも直ぐに抜刀できる状態だ。自分の勘を疑ったことは無く、彼のそれによれば、いつ何が起こっても不思議ではない筈だった。それ程の刺激を含んだ空気がある。そうして大きな広間の中程まで足を運んだ時、初めて彼はこの特殊な気配を形作る、一因を理解した。
酷似しているのである。アストラルの洞窟遺跡に。
灯の色こそ違え、燃え続ける炎は造り主たる旧異種族の念であり、彼等が存在した証を消すまいとしている様だった。それが一体何に対する抵抗なのかは定かでなかったが−−−少なくともアストラルの遺跡に比べれば、まだ浸蝕され切っていないらしい。そんな根拠の無い思いを抱く。だから、奇妙なのだ。
浸蝕の原因とは−−−やはり、魔物なのか?
耳を澄ませば微かな唸りや衣擦れ、遙か遠くから残響して尾を引く悲鳴が、密やかな雑音となって神殿内を満たしている。彫刻の陰、階段下の暗がり、それとも廊下の曲り角の向こうに、それらはいるのかもしれない。視野に何者の影も見当たらないのは単なる幸運なのか、或いは魔物らは、研ぎ澄ました顎を開いて愚かな侵入者をじっと待ち伏せているのか。
それでも神殿は抵抗を続けているのだろう。溢れ出す気配を抱えても尚、ここは密やかで神聖ですらあったのだから。
「あんまりのんびりもしていられなさそうだな」
『隠しっつうくらい』なのだから魔物も出ないのかと微かに期待していたシウスであったが、どうやら魔王はそれほど甘くないらしい。
「ここにも魔物がいるみたいね」
「ひょっとすると真実の瞳はとっくに魔物に持ち去られとるかもしれんの。それでも行くか?」
埃の上には所々何かを引き摺った跡や、明らかに足跡と判るものが残されており、魔物の徘徊を裏付けていた。神殿への通路は、かなり以前から知られていた様である。少なくともローク人以外には。
「まぁ、当てなんてありませんから。行けるならどこにだって行きますよ・・・結果的に何も得られないにしても、何もしないよりは希望が持てますから」
アシュレイの問い掛けに答えたラティクスの言葉に、ヨシュアも同意を示した。控えめに口を開く。
「僕も同じです・・・ところで、不思議じゃないですか?こんなに魔物の気配がするのに何もいない・・・」
「そうだなぁ。どうしてなんだろう?」
シウス同様、ラティクスにも魔物の気配はとてもよく感じられた。もう一度よく確かめてみようと、灯りがあるとはいえ十分な光量には至っていない大広間を見渡す。
「何か見えるか?ラティ」
「いや、何もいない。変だな」
「あら・・・?」
ラティクスと反対側の方向を見ていたイリアには、遠くから近づいてくるものが見えた。
それは薄青い半透明な物体で、人の倍程の大きさがあるだろうか。硬質ではなく背景を透かす内部は絶えず揺らめき、その塊自体も縦横の伸縮を繰り返している。有機物めいたガラス質の物体であったが、しかし生き物、つまり魔物という感じがしなかったので警戒が遅れたのが不味かった。そのガラスの様な物は音も立てず、まるで滑る様に、後ろを向いてシウスと話しているラティクスに向って突っ込んでいく。
「ラティ、後ろ!」
イリアの声に彼が振り向いて身を捻るのと、ガラス状の何かが彼の横を掠めていくのはほぼ同時だったはずだ。空気の流れが身を取り巻いた。次の反応が何も無いので、魔物ではない様だけれど・・・と疑問に思った時点でラティクスは異常に気付く。
「あれ?」
目がおかしくなったのかと、思わず入念に瞬きをした。
彼の周囲で物の配置が変わっていた。柱の位置が、扉の配置ががらりと違う。その上どうしたことなのか仲間達は広間の向こう端に立っていて、状況を把握出来かねた。
「ラティ、大丈夫っ?!」
イリアの声が響き、彼は大きく手を振ってそれに応えた。別の一方で『ガラス』がラティクスに突進したのと同じに動いているのが見える。そいつが自分の方に来ないのを横目で確認しながらラティクスは駆け足で、今さっきまでいた場所まで戻ってきた。
「一体何がどうなったんですか?」
皆が驚愕の眼差しで自分を見ているのでラティクスは事情説明を求める。
「それがの。あの透明なのにヌシが触った途端、ヌシの姿が消えたんじゃ」
「それから直ぐに、いまラティクスさんが立っていた場所に現れたんです。一瞬の内に移動した・・・のでしょうか・・・?」
「透明なのは凄い勢いでぶつかったみたいじゃが、怪我はないかの?」
「気味が悪いぜ。ラティ、お前本当に平気なのか?どっか欠けてるかもしれねぇぞ」
「ひょっとして紋章術だったんでしょうか、今のは。何か感じませんでしたか?」
「ちょ、ちょっと待って下さいよ。・・・イリアさん、説明をお願いします」
一斉に説明されても何を言われているのか解ったものではない。
イリアは走り去っていった『ガラス』を熱心に目で追い続けていたが、ラティクスの求めに応じて視線を元に戻した。多少驚きの色はあったものの、琥珀色のそれは普段とあまり変わらない。
とんでもない事でも起きたのかとどきどきしていたラティクスだったが、何となく安心をした。
「まぁ・・・見たままを言えば、空間転移ね。転送機を使ったことがあったでしょう?
起こったことはあれと同じよ。あなたはここから向こうに、瞬間的に移動したわ」
「へぇ、そんな感じは全然しなかったですけど。何も違和感が無かったっていうか・・・」
転送機で惑星ロークから戦艦カルナスへ、あるいはカルナスから惑星ストリームへと転送された時の不可思議な感触を思い出したラティクスには、同じことだと言われても少し納得出来なかった。
「それは原理の違いか、性能の違いかもね。ここで言う『紋章術』の力なのかもしれないわ。その辺りは全然解らないけれど。・・・触ると空間転移させられるみたいだから、調べることも出来ないし。
そうだ、シウスじゃないけれど、どこか欠けてる所なんて無いわよね?」
「はは・・・それは大丈夫です」
「転送機?」
「何でもないわ、こっちの話よ。それよりも、」
怪訝そうな顔をしたヨシュアににっこりと笑いかけて、イリアは歩き出した。
「とにかく先を急ぎましょう。この神殿がどの位広いのかも判らないんだから、のんびりなんてしてられないわ」
その言葉は図らずも現実のものとなった。
最初の大広間を抜けた一行を待ち受けていたのは、とても豪奢な装飾の施された扉であった。しかしシウスの力をもってしても、固く閉ざされたそれはびくともしなかった為に、仕方なく足は別の方向に向かう。そこで見つけたのは、もう一つの全く同じ様な扉であった。これはヨシュアの細腕で苦もなく開き、通路が別の部屋へと続いている。
目に入ったものは水色の塊だった。
「はぁ、こんな所にもいるのか?」
叩き斬ってやろうかとシウスが剣を抜いたがラティクスは制した。『ガラス』の動きはこちらを認識したものでないことが明白であったからだ。しかも恐らく、触れればどこかに転移させられてしまう。
「何なのかしらねぇ、これは」
確かに、これまでに出会ったことの無い物体は一行を困惑させるのに充分なものだった。
その為に全員の意識が周囲の警戒から逸れた時、小さく甲高い音が虚空に生まれたかと思うと一条の煌めきと共に飛来してくるものがあった。野生の勘ともいえる反射的な動きで、迷わずシウスが抜き身の剣を振るって叩き落とせば床に砕け散ったのは透明な氷の破片。
「魔物じゃの!」
アシュレイがそう警告して次の瞬間には、さして遠くない場所から氷を放った奇妙な風体の紋章使い、マギウスに向って跳躍し、ただの一太刀で倒していた。どうして今まで気付かなかったのか、自らの迂闊さに舌打ちをしながらも、術師系の魔物が単体で攻撃を仕掛けてくることはまず無いので、冷静さを取り戻してラティクスは周囲を探る。案の定だ、甲冑に身を包んだ異形の剣士が正に攻撃を加えようとサーベルを振り向けている。飛翔剣すら操る侮れない敵ではあったが、その攻撃パタ−ンを今までの経験によって熟知していたラティクスは焦らなかった。
結局その場にいたのは二体だけで、短い戦闘を終えると彼等はその後周囲のあらゆるものに注意を払いながら細長い部屋を行き止まりまで歩いてみた。何も無い。
首を捻りながら引き返した所で、ヨシュアが何かに気が付いた。
「・・・あれって何か、動かすものですよね?」
彼が指さしたのは、いささか過度にも見える装飾に埋もれ、既にその一部となっているに等しかった棒状の物体である。その場所は今し方入ってきた扉に近い、先程魔物に襲われた場所でもあった。あの時の混乱で見落としてしまったに違いない。
「下げてみようか」
提案してみたラティクスは、レバ−の前に自分以外の誰も立っていないことに気が付いた。
青年はやや引き攣り気味の表情を浮かべながら仲間を見ようとしたが、何故か誰とも視線が合わない。無論その意味することは明白ではあったのだが。
「・・・俺が下げるの?」
「だと嬉しいかも♪」
「何が起こるか解からんしのぉ」
「あ、アシュレイさん?」
「ほれ、漢ならぐぐっとな」
これはぐぐっとレバ−を下げろ、という意味なのであろう。当然のことながらアシュレイには逆らえないラティクス、戦々兢々としながら取手をつかんで一気に押し下げた。重い手応えを感じたが、それはさして難しい作業でなかった。
シウスが何故だかつまらなそうに、レバーに向って身構えていたラティクスを見る。
「なんだ、何も起こらねぇのか。こういう時は仕掛けでも動くもんだろうに」
「あのなあシウス・・・」
『仕掛け』
脱力したラティクスを無視してイリアとヨシュアが同時に言葉を発し、一拍置いてから思わず顔を見合わせて笑った。
「仕掛けが動くとしたら、多分、あそこよね」
「そうですね。あの扉でしょう」
「扉?・・・あぁ、そうか」
ラティクスの頭にも、やっと開けられなかった扉のことが浮かんだ。
急ぎ足で戻り、先程は頑として動かなかった扉に手をかければ、実に易々と開くことが出来た。先に広がった同じ造りの神秘の空間に少しがっかりし、直ぐに気を取り直す。探索はまだまだ続きそうだ。
狂おしいほどの純粋な思い、それだけに私達は応じる。
心の深さのみが、私達を動かすものに成り得る。
古の民の思いは、古の民との契約によって示されよう。
「本当に不思議な場所だわ。これが神殿だなんて信じられない」
灯火の落とす紫の光と、時折差し込む青い光を金髪に散らしながら彼女が目を輝かせた時、ラティクスは色々な意味で途方に暮れた。青い光を発する『ガラス』が目の前を横切っていった。
イリアの視点がラティクスと大きくずれているのは多々ある事だが、今回、果たして彼女はこの状況を解っているのだろうか。一行の先頭に立っていた彼女ならば勿論理解しているのであろうが・・・一目瞭然のことをわざわざ彼女に向かって指摘する気にはならなかったので、ラティクスは自分なりにこの状況を分析してみることにした。三秒と待たずに出てきた結果は、足止めを食らった、ということ。
「一体何の目的の為に造られたのかしら?」
青い『ガラス』が彼女のすぐ前を横切っていった。
「そりゃ、真実の瞳を隠す為だろうが」
シウスが当たり前の様に応じるが、イリアは腑に落ちない顔をして、また通過して行った物体を目で追いかける。
「じゃあ、神殿じゃないってこと?」
「・・・それなのに神殿なんて名前がついているのは、確かに妙な感じがしますね」
翡翠色の髪が淡い紫を帯びている。物憂げな色を纏った青年はやや俯いていた顔を上げ、今までとは打って変わって狭くなった通路に向かって、厳しい視線を向けた。
先程から燐光を発する『ガラス』が次々と目の前を通過していく。
「何にせよ、こんな方法で道を塞いでいるのですから普通の目的で建てられたものではないでしょう。どうしますか、これから」
もしも『ガラス』の役割が接触したものをどこかに転送する事にあるならば、ここから先には並大抵のことでは進めないだろう。不幸中の幸いとでも言えるのは、『ガラス』が一定のル−トを周回するという性質を持っているらしい、ということだけであった。揺らめく光が神殿の壁をあたかも水面の様に映し出している様は実に美しかったが、その美しい通路の幅は狭すぎて、とても『ガラス』と擦れ違えるだけの広さがない。
上手い具合に『ガラス』と次の『ガラス』の間を割って移動しない限り、この区画を抜けることは出来ないだろう。最早これは侵入者に対する足止め、防御としか考えられなかった。
「勿論、突破するだけだろ」
「難しいですね」
「じゃあ諦めるのか?」
「まさか」
ヨシュアは心外だと言うように、微妙なアクセントを持つ言葉を吐き出した。その様子がフェザ−フォルクに抱いた印象と違ったことに、誰もが驚いたのではないだろうか。彼を包んでいた雰囲気はたおやかでも繊細でもなく、一念を貫き続ける豪毅さそのものであったからだ。
ヨシュアは翼から羽根を一枚抜き取り、通路に向ってふっと吹いた。舞った羽根は、途端に『ガラス』と接触して掻き消える。
「・・・出現地点は、そこですか」
振り返ったヨシュアの眼前に現れた羽根はやがて床に落ちた。
「つまり何度だってやり直しはきくということです。僕は何度でも挑戦しますよ」
シウスは内心で、この青年に対する認識を改めるべきだと確信する。こいつは、実に侮れない相手だ。
「体当たりって事か」
「でも、ただがむしゃらに行くだけじゃあ、ここを抜けることは出来ないわ」
イリアが荷物の中から新しい紙と木炭、それに麺麭の欠片を取り出した。洞窟に入った時などに、しばしば帰り方を記すのに使うものである。彼女は今までの道順を記録しておいたものを仕舞って、まだ何も書かれていない紙を広げた。
「おいおい、何をするつもりなんだ?」
「地図を書くに決まってるでしょう。五人で一度に行ったって、体力の無駄使いになるだけよ」
「一人ずつ交代で、この中の様子を見てくるってことですか」
「えぇ。多分、そっちの方が効率いいんじゃないかしら」
感心した様にヨシュアは頷いた。
「成程・・・考えましたね」
「それ程でも。誰が最初に行く?」
「俺が行ってみます」
ラティクスが手を挙げた。俊敏さには割と自信がある。それからふと気が付いてヨシュアに言った。
「もっとここが広ければ、ヨシュアさんは上を飛べるんですけどね」
「そうですね。翼を全部広げるのには、広さが足りないですから・・・」
天井を見上げながらヨシュアは同意した。確かに十分な広さがあれば、ここを抜けることなど容易い。だがそれは無理なのだ。と、ある思い付きが頭に浮かんだ。
「でも、ひょっとしたらあの透明のを飛び越すこと位は出来るかもしれません。
どこまで行けるかわかりませんが、まずは僕に行かせてもらえませんか?」
少し驚いたラティクスであったが、ヨシュアの提案が上手く行けば、これほど都合のよいことはない。
「構いませんけれど、魔物が出るかもしれませんから気を付けて下さいよ」
「はい。紋章術は多少使えますから。荷物はここに置かせておいてもらいますね」
重いですから、と筆記具だけを持ったヨシュアの言葉は、抜け駆けしない、という宣言であったのかもしれない。
昔から神殿として呼び慣わされてきた場所は、その機能を疑うに充分な迷宮であった。
今度からパ−ジ迷宮と改名するべきではなかろうか、と考えながらアシュレイは宙を舞ったサ−グェンの剣を叩き落として戦いの真っ最中である仲間達の方を見た。とみに最近は、若い者の戦い振りを鑑賞するのがすっかり趣味になっている。それも質の落ちた小手先の技ではなく、まだまだ発達途上だが才能溢れる戦士達の技の数々だ。自分は幸せ者に違いない、と老剣士は密かに笑んだ。しかも新しく加わった仲間は極上の紋章術師である。
「アイスニ−ドル!」
魔物が飛ばしてきたよりも先端鋭く透明な氷塊がフェザ−フォルクの広げた腕に生まれ、もう一体の異形の剣士サ−グェンを、その鎧をものともせずに貫いた。噴き出す血液すらも凍って床を汚さない。ヨシュアはもう一本の創出した氷槍をマギウスに向かってそっと押し出した。たったそれだけの動作で、術師は空中から撃ち落とされる。浮遊するこの魔物もまた、アイスニ−ドルの呪紋で彼を狙っていたのだった。
「終わったか」
「はい」
青年は、大きく息をついた。
結局ヨシュアが四回、他の面々が二回ずつ挑戦した結果、地図は描かれた。それは思ったよりも楽な作業であったが、ひとえにヨシュアのお陰であったと言えるだろう。
あの区画を突破した後は、特に一行の足を止めるものは無かった。途中何回か道に迷いそうになったものの、幾つかのレバーを押し下げて扉を開き、階段を昇って上階へ上階へと向っていく経路は、基本的に一本道だったのだ。勿論あくまで基本的に、であって、迷宮という印象が変化するわけではなかったが。
「この神殿は、旧異種族の建造したものだと言われておるが」
休憩をとりながら、アシュレイが記憶を辿っていた。一つの石版が建てられているそこは見通しがよく、魔物の急襲を受けにくい場所だった。
「何を祀ったものなのかは全くわかっておらん。神殿というのも、結局は儂等が慣習的に呼んでいるものだしの。魔物がおるということは、何か目ぼしいものがあるということかもしれぬが・・・ここにおる何かが・・・あの水色の塊やら何やらが、魔物共を牽制している様にも見える。不思議じゃのう」
「この文字も、訳がわからねぇぜ」
石版に一行だけ彫ってある言葉を見てシウスが首を捻る。
「一体何が言いてぇんだろ」
「本当に不思議なことばかりですが・・・」
恐らく、時間にすれば今は夕食時である。貝殻の付いた不思議な物体を食しながら、ヨシュアが言った。
「その分、真実の瞳には期待が出来そうです。何となく、まだ持ち去られていない気がします」
「ま、俺もそんな気がするが。ところで何を食ってるんだ?」
「エスカルゴです。好物なんですよ。一つ食べますか?」
「じゃ、一つもらうぜ。・・・サザエの壺焼きみたいなもんだな。大きさも味もかなり違うが」
サザエはフィアの好物だったなぁ、などとシウスが思い出しつつ感想を述べると、ヨシュアは断言した。
「違って当たり前です。海産物じゃないんですから」
「そういうもんなのか」
「・・・そ、そろそろ先に進みましょうか?」
イリアにはむしろエスカルゴを携帯食にしている青年の方があまり理解出来なかったのだが、個人の行動を一々気にしても始まらない。
「ですね。随分時間をとってしまったし」
「にしても、そろそろ目的地についてもいい頃だと思うんだがなぁ」
広すぎるぜ、とシウスは吐き捨てた。
「案外この階段を昇ったらそうなのかもしれないわよ」
「だといいんだが」
そんな遣り取りをしながら、一行は幾度かの交戦で消耗した体力を回復させ、心機一転して前進を再開した。
去ね、招かれざる者達よ。
私達が待ち続けているのは、或る契約に則った者だけだ。
大きな邪悪に包まれながらも場を守り続けるは、それが永遠の約束であるが故のこと。
広い空間が拓けていた。そして行き交っていたのは一面のガラス、ガラス、ガラス。
ただ、今までと違っていたのは、その『ガラス』が紅い色をしていたということである。中央には一つだけ、見慣れた青い『ガラス』が意味あり気に揺らめいていた。
「ちょっと待てよ、今度は一体何なんだ?」
もう沢山だ、とシウスが額を押さえた。
「ラティ、どうすりゃいいと思う?」
「・・・きっと、簡単な謎解きなんじゃないか?ほら、さっきあったやつ。
『炎の紅は汝の敵。その逆は・・・』」
ラティクスは、先程ひっそりと立っていた石碑の文字を思い出した。
「紅いのは触ったら駄目で、青いのに触ればいいということだとすると・・・」
「それはつまり走れって事なのよね!ほら、急いで!!」
イリアが叱咤した。
紅く揺らめく『ガラス』が一斉にこちらに向ってやってくる。いままでのものとは違って、自由に動き回ることが出来るらしい。四人は走り、一人が宙に舞った。いずれも目指すのは水面の如く揺らめく、ただ一つの青。
何とか『炎』を掻い潜って『水』面に飛び込むと、次の瞬間ラティクスは、全く別の場所に立っていた。
「皆、無事か?」
彼の周囲に次々と仲間達が現出する。脱落者は無い。けれども彼等に安堵する間は与えられなかった。
「気を付けてっ!」
イリアが飛び退ってハードナックルを構えた。燃え盛る炎が、一瞬前まで彼女の立っていた場所を横切る。それは激しく唸りを上げて、前脚で悔しそうに床石を掻いた。ラティクスが初めて見る魔物であった。
「何だ?!」
「魔界の狼、ウルフシェイプじゃ。油断は禁物だぞ!」
巨大な扉を守護する様に蹲っていた残り三体の魔狼も宙を駆けて彼等を包囲した。
楽観できない状況に、ヨシュアは奥歯を強く噛む。
「ここから先へは行かせない、ということですか・・・」
「あの扉の向こうにお宝があるってか?
魔王だかここの主だか知らねぇが、叩っ切れるんならこっちのもんだ!かかって来やがれ!!」
そんなヨシュアとは対照的に、戦えるとなると俄然元気になるのがシウスという男である。
「僕が奴等に全体呪紋をかけます。時間を下さい」
「よっしゃ、援護するぜ!」
呪紋を唱え始めたヨシュアを守る形で四人は散って、各自一体ずつを担当した。同じ空飛ぶ魔物といっても、マギウスを相手にするのとは大分勝手が違う。四体の魔狼達は自在に空中を移動して彼等の攻撃を躱し、恐るべき俊敏さで牙を立ててきた。空破斬や衝霊波、あるいは気功掌といった対空用に使える技を放っても、これが中々決定打にならない。しかも毛並みを包む炎さながらの輝きが、眼を射て遠近感を狂わせる。
「魔物から離れて!」
ヨシュアの声が飛んだ半拍後、凍てつく嵐が吹き荒れた。複雑に編み上げた呪紋によって、彼の放ったブリザードは敵だけを選択的に襲い、動きを封じ込む。無論、その機を逃さずに四人は攻撃を加え続けた。
もう一度ブリザードが発動し、全ての魔狼が倒される。
呪紋の所為で下がった室温に吐く息を白くしながら、ラティクス達は互いの無事を確かめた。
回復呪紋すらも扱えるヨシュアの高い能力には、一同驚くばかりである。
「貴方の紋章術って、本当に凄いのね」
「それ程でもありません。僕なんてまだまだ若輩者です」
首を横に振った彼に、アシュレイが呆れた顔をする。
「何を言うか。フェザーフォルクの紋章術師ほど、得難い戦力は無いというぞ」
「僕も、紋章術がこんなに使える人を初めてみました」
「ラティクスさんまで・・・・・・はい、治療が済みました。行きましょう」
頷いて、ラティクスは大きな扉に片手を押し当てた。冷たい手触りを感じ、扉はゆっくりと動きだす。
この扉の先こそが、目的の場所であることを祈りたい。そして、目的が果たされることを。
ラティクスもイリアは、ここで行方知れずの仲間が見つかることを切に願った。
紋章術の絶大な威力に感心したイリアは思う。もしも紋章術であらゆることが出来るなら、ロニキス達を見つける事も、ひょっとしたら簡単なことなのだろうか?そう考えてから、都合の良いそれを打ち消した。だとすれば、どうしてヨシュアが人捜しを続けているのか。全く、世の中に万能の力など存在するわけがない。
『紋章術』なるものに、その様な一瞬の幻想を抱いた彼女であったが、ヨシュアに匹敵する稀代の紋章術師がごく身近に育ちつつある事などに思い至る筈は無かった。しかし、それは確実に芽を出していたのである。
かの、落ち葉降り積もる大陸で。
私達の交わした今一つの契約は、この世界を覆っている。
その契約は・・・
その契約は・・・・・・