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神様は、何でも知っているのよ。
どんな人の願いも、気持ちも。
神様に解らないことはないの。
神の瞳を僕に下さい。
神様は何時でもあなた達のことを見守っているわ。
神の瞳を僕に下さい。
僕の瞳では一つしか世界が見えなくて、とても不便なんです。
駄目よ、貴方は神様じゃないんだから。
だけど僕はそれが欲しい。
ここだけでものを考えるのは酷く辛いんです。
でもね、神様は見ているだけなのよ。
何時でもただ見ているだけ。
・・・・・・見ているだけ?
全てが解ってしまった神様に、
一体何をしろっていうのかしら?貴方は。
・・・・・・・・・・・・
そう、結局見ているだけなんです。
そんなものに価値があるとは思えませんが、
それでも欲しいと貴方は言うのでしょうか?
Respectively Stages and Neutral
ちょいと面白そうだから、と首を突っ込んでみただけのことだった筈なのに、気が付いたら『宇宙を救う』とかいうとんでもないことになっていた。まあ、ニーネの為だから仕方ないが。そんな話の内容はおおごとな割に単純で、とにかく十賢者とやらを倒せばいいんだから存在すら怪しい仮説を証明するよりはずっと楽なものだ。なに、このボーマン=ジーン様にかかれば大したことじゃあない。
そろそろ髪を切らんといかんな。
毛先のいよいよ揃わなくなってきた前髪が一房目に入りそうになったので、彼は煩わしげに頭を振った。研究に没頭していた日々には、こんなことは日常茶飯事だったと思い出す。ニーネと付き合い始めてから久しく無かったことだ。彼はもう一度繰り返した。なに、このボーマン=ジーン様にかかれば大したことじゃあない。
・・・それでも気付けば、彼は『今は存在しない』愛妻に思いを馳せていた。彼女には迷惑をかけ通しだった様に思う。将来の保証されたラクール王国の研究職を退いてリンガに小さな薬屋を開いた時、彼女は何も言わなかった。彼が自分の周囲に存在するものへの興味を満たす為にリンガから飛び出していった時も、辛い様子の一つも見せずにじっと独り、店を守っていた。
実際、彼女はそれを辛いとは思っていないのだと彼は確信している。二人の間に深い信頼と愛情はあっても、依存は存在しなかったからだ。一緒に時を過ごすことは例えようもない幸せだが、それは互いに束縛しあう理由にはならない。ボーマンがそうであるのと同じ様に、ニーネは自立した人間であったから。彼女はボーマンと違ってひとところに留まり、店を守っていくことを望んでいた。もしも彼女が自らの興味でボーマンに同行することを望んだなら、ボーマンは店をたたむことを厭わなかっただろう。しかし彼女はそうしなかったし、自分がそうしないからといってボーマンに自分のスタイルを強要もしなかった。たとえ不安そうな表情を見せても、最後は笑って彼の意思を尊重するのだ。相手を束縛することが自分への愛情の証だとでも勘違いしている女達とは全く違う。
ボーマンは彼女を愛し、信頼し、尊敬していた。
もしもクロード達のソーサリーグローブ調査に付いていかなかったなら、自分だけがこの世界に取り残されることなどなかった・・・反対に言えばあの時に家を出てきたからこそ彼女を救う機会を手に入れたのかもしれないが、愛妻を取り戻す方法が判ったところで、今、この瞬間に彼女が存在しない事実は変わりはしない。それを再認識する度、彼はどうしようもない無力感と空虚感を感じるのだった。
「ボーマンさん、元気ないね」
窓際で本の頁を繰る手を止めて物思いに耽っているボーマンを窺いながら、レナは心配そうだった。その彼女にしても惑星エクスペル消滅の事実を知らされて少なからずショックを受けている。とは言え、具体的な解決策が提示されたことで徐々に普通の状態を取り戻しつつはあった。だからこそ、ボーマンの沈んだ様子が気になったのだろう。
クロードとテトラジェネスの二人、そしてついこの間仲間に加わったノエルとチサトを除いたパーティの面々は程度の差こそあれ、皆、同じ様な状態ではある。
「仕方ないよ、もう少しそっとしておこう。それよりレナの方こそ大丈夫なのかい?」
「私は平気。まだ信じられないけどね。エクスペルが無くなる、なんて考えたこともなかったから」
「うん、そうだね・・・」
エクスペル消滅の事実を知りながら、どうしてもレナ達に伝えることの出来なかったクロードは顔を歪めてボーマンから目を逸らす。彼は、部屋の入り口に立っている二人に全く気付いていなかった。ただ何も無い空中の一点を見つめたまま凝っている。今の彼には何も見えず、また聞こえてもいないのだろう。
「私ディアスの所に行ってくるわ。ごめん、これ、いいかしら?」
「ああ。彼の様子はどう?」
「・・・わからない。だからちょっと見てみる」
レナはクロードと一緒に買い出してきた道具類をクロードに預け、上階に消えた。残されたクロードは何も言わずにそれを見送る。恐らく落ち込んでいるのはディアスではなくレナの方だろう。立ち直った風に振る舞いながらも、エクスペル消滅の衝撃は並大抵のものではない。クロードは唇を噛んだ。地球人であるクロードに、『全世界を失った』心境を共有することは出来ないからだ。
「辛そうだな」
「ええ。僕に今のレナの気持ちは、多分解りませんから。有人惑星を道具みたいに使って破壊するなんて、本当に・・・許せないことです」
背後の人物に答えながら、クロードは自分にエクスペル人の悲しみが理解出来ていないことを解っている。
彼はほんの短い間、その場に居合わせた一傍観者に過ぎなかった。先進惑星が未開惑星を見る、それはあたかも神の視点の様だ。クロードの本質は、『自然現象』という言葉であの悲劇を片付け、また片付けざるを得なかった地球連邦と全く変わらない。何故なら、彼にとって一惑星は全世界ではないから。
「本当に自分に嫌気がさします。僕はどうしても先進惑星としての視点でしか物事を見られない。どこか客観的で・・・多分、自分自身が本当に何かを失わない限りレナ達の気持ちを解ることはないでしょう。現に今だってエクスペルを復活させる術があるのにどうして皆が落ち込んでいるのか、本当には解ってないんです」
十賢者を倒せばエクスペルは復活する。それも非常識的な方法で。
ネーデ人はクロード達に助力を惜しまず、その助言によって彼等は『四つの力』なるものを手に入れた。
またその過程でクロード達は、ネーデの技術を用いて生み出された強力な武器をも手に入れた。
ネーデ人達にとって、そしてクロード達にとって、クロード達が負けることは許されなかった。
逆に言えばクロード達には前を見ることしか出来なかったのだ。それはすなわちエクスペルが復活するという未来を思い描かねばならないということ。
ならばどうして、とクロードは思う。一体どうして、例えばボーマンの様に、落ち込まなければならないのか。こう言ってしまえば難だが、エクスペル崩壊の事実は、告げられなければ解らなかった様な事、更に言えば・・・告げられても事実確認のしようの無い事だったのではないだろうか?
つまり、フィーナル突入を目の前にして『そんなこと』を振り返っている暇など無い・・・この気持ちは決して表立ったものではなかったが、紛れもなくクロードの中に存在しているものだった。
そして同時にクロードには解っていた。自分のこの気持ちはエクスペル人とは相容れぬものなのだと。惑星エクスペルが現在存在していないという事がエクスペル人にとってどんな意味を持つのか、理屈では解るような気がしても、感情は理屈通りに物を感じない。その理屈すら、正しいとは限らないのだと解っていたのだ。四つの場での不可思議な体験は、今まで彼が歩んできた人生で頑なに信じてきたものにひびを生じさせた。
最早彼には、何が正しくて正しくないのか自信を持って指し示す事など、出来はしなかったのだ。
自分にはエクスペル人の気持ちなど・・・・・・
「多分、全然解ってなんかないんです」
クロードは後方で彼が一瞬息を止め、それからゆっくりと吐き出すのを聞いた。
「そんな事は俺もオペラも同じだよ。クロード、なにも君一人の話ではない」
「知っています。だから、どうにもならないから嫌になるんですよ」
クロードは溜め息をつきながらそう言って振り返った。見慣れた長身、第三の瞳、エルネストは今日も無精髭を剃らなかったらしい。加えて少々疲れている様にも見えた。
「愛の場での怪我、まだ治ってないんですか?」
「まぁ、深かったからな。大体は塞がったんだが、その分体力が落ちた」
「それならまだ寝てた方が・・・」
「寝てる方が体力が落ちるさ。何か食べに行かないか?昼飯まだだろう」
「はぁ・・・まぁ・・・」
「じゃあ決まりだな。その袋は俺の部屋に置いていけ」
低い声で発されたエルネストの言葉は命令も同然に、強く廊下に響いた。そこで、クロードは半ば強制的にエルネストに伴われると再び宿を出るはめになってしまったのであった。
★
「ディアス、いる?」
ブランディワインの最上階、ディアスの部屋のドアを叩いても応えが無いのでレナはそっと扉の取っ手を回した。抵抗無くそれは回り、小さな音を立てて開く。
ディアスはベッドに仰向けになって目を閉じていた。レナがドアを叩く音も聞こえていたのだろう。彼女が入ってくるのと同時に彼は手も使わずに体を起こした。
「何か用か?」
相変わらずの無愛想な物言いにレナは思わず顔を綻ばせる。
「ううん、ただどうしてるかと思って」
「俺が落ち込んでいるとでも思ったのか、お前は」
相変わらずの『妹』ぶりに、彼は苦笑した様だった。
「悪い?だって心配だったんだもの。
エクスペルが無くなっちゃったんだよ?本当に平気なの?」
「平気?何がだ」
全く平然としているディアスの答えにレナはしばし沈黙した。
「・・・例えば、恋人が心配・・・とか」
「冗談を言うな。
それよりも心配なのはお前の方じゃないのか?全然元気が無い」
「私は大丈夫よ。だって、エクスペルを救うことは出来るんですもの。
本当だったらそんなこと絶対に無理なのに。とっても嬉しいわ」
レナはとん、とディアスの隣に腰掛けて彼の肩に頭をもたせ掛けた。遠い昔、まだディアスの家族が健在だった頃はよくセシルと三人で遊び、ディアスはレナの兄であった。今でもレナにとってディアスは信頼出来る兄のままだ。今は彼だけがエクスペルでの生活とレナを繋ぐ者だった。ディアスがここにいて本当によかったとレナは思う。
「本当に、幸せよ」
「それならば、何故そんな顔をしている」
「え?」
ディアスはレナを見下ろしていた。
「レナ、まるで泣きそうな顔だぞ」
「そんなことないわ」
意に反して自分の声が震えたのにレナは驚いた。ディアスは昔、よくやった様にレナの頭を無造作に撫でる。
「お前は自分の大切な者達が世界中の何処にもいないということに気付いている。仮にエクスペルを取り戻す方法があったとしても、俺とお前がこうして生きている今、彼等が死んでいるという事実は変わらない。そんな状況を阻止出来なかった自らに気付いているから、そんなに哀しそうな顔をするんだ」
ディアスの言葉を理解するのにしばらくかかった。レナは震える声を励まして彼に尋ねる。
「そうなのかな。だからこんなわけの解らない気持ちなのかな?」
一昨日、ナールから真実を知らされた後にレナの胸を満たしたのはエクスペルを取り戻せる、という安堵感だけではなかった。哀しみ、焦燥、後悔・・・どれとも言えない、不思議な気持ちがレナを捉えて放さなかった。それは今も続いている。
「お前の場合は・・・時間を戻すことが出来る。無くなったものを取り戻すことが出来るから、中途半端な気持ちにもなるのだろう。
お前はさっき俺に平気かと尋ねたが、俺は一度かけがえのないものを失った。今更エクスペルが消滅したところで失ったものなど無い。あえていえば戦う場所・・・か。だがそんなものは、十賢者を倒しさえすれば無傷で取り戻す事が出来る・・・俺はお前と違ってこの幸運をそのまま受け入れることが出来る。
だから、俺は平気だ」
淡々と話す彼に、レナの心はかつて見た光景を重ねた。彼の家族を救えなかったのはレナだった。死んだ者を取り戻すことは、いかに彼女の治癒力をもっても不可能であったのだ。
取り戻すことの出来ないものがある、その絶望を誰よりも味わったのは彼ではなかったか。だから、小さな声で彼女は尋ねる。相手がこの問を無意味なものと、否定してくれることを願いながら。
「ディアスには、もう失いたくないものが無いの?」
僅かな間。
やはり、彼は肯定するのか。自らの人生に価値が無いということを。あまりにも悲しすぎる事実ではないのか?それ以上は見ていられなくて目を伏せる。
隣で薄青い頭髪が揺れ、さらさらと微かな音を立てた。
「『妹』がここにいるからな。それだけで俺は十分だ」
はっとして顔を上げたレナにディアスは小さく笑いかけた。が、彼女を見つめるその目はどことなく哀しげだった。彼が今、見ているものはセシルなのだとレナは思う。
ディアスはもう一度、レナの頭を撫でる。
「お前、一昨日から一度も泣いていないのだろう。少しここで泣いていけ、頭が冷える」
「・・・・・・・うん」
自然にレナの瞳から涙が滑り落ちた。やるせない涙、どうして泣いているのか自分でもよく解らないままに泣き続ける妹の肩を、兄は優しく抱いていた。
★
「はぁ・・・何だか皆さん大変そうですねぇ・・・」
セントラルシティの中央広場には、沢山の店が軒を連ねている。青空の下、路上に展開されているパラソルが華やかだった。その中の一つでノエルは一人座っている。本来人込みを好かない性分なのだが、あまりにも重すぎる事実を知らされたパーティの中で状況を解らずに混ざっているのはさすがに気がひけた、そんな理由からだ。
ノエルはクロード達が辿ってきた道を知らない。
判るのは彼等の内の何人かの故郷が消滅した事とそれが復活可能な事。そして十賢者を倒すことがその復活の絶対条件であるという事だけだ。そんなノエルが新しい仲間にどう声を掛ければいいのか解らなかったとしても、無理ないことである。彼はある意味で程度の差こそあれ・・・それはとても大きな差ではあるが・・・クロードと同じ様な立場にあった。ただ、彼がクロードと違った点は『自分に解る筈の無い事』があるという事実を、自然に受け入れている所であった。
それはもう一人のネーディアン、あの情熱的な新聞記者の方も同じなのだろう。彼女は今もシティホール内の新聞社で、久々のデスクワークに勤しんでいる。四つの場を巡り終えた総評特集を組むのに忙しすぎて、彼女にはノエルの相手などしていられない。ナールの話もあったから、エクスペルのことをも記事にするのだろうか?いずれにしても新聞記者に暇は無い。だからまぁ、ノエルはここで一人寂しく茶などすすっているわけであるが。
・・・いや、だが。
ここでノエルは、とある一つのことに思い当たって苦笑しかけた顔を元に戻した。確かあの新聞記者はここ最近、十賢者関係のコラムニストの一人としてフェルプールの天才少年を(無理矢理)起用していたのではなかったか。
今、自分が彼女の立場であったらと考え、思わず胃が痛くなるのを感じてノエルが今度こそ苦笑した時。
噴水の向こう、中央広場の丁度向かい側に変わった人影が見えた。周りよりも頭一つ高い。
見間違えようの無い双頭の龍を背負った姿は仲間のものだった。
てっきり宿に引き籠っているかと思っていたが、その仲間・・・アシュトン・・・は一見普通の様子でこちらに向かって歩いてくる。ネーデの、それもセントラルシティで、アシュトンの姿は中々に時代錯誤な感じがした。背中の龍などはまるでファンシティのキャラクター人形の様だ。本人には失礼だが、ノエルはそんな事を思って微笑した。機会があったら彼等が構造的にどうやって融合しているのか調べてみたいものだ。双頭龍は一体どんなつもりで、『取り憑いた』(とは仲間達の言うところ表現であるが)のであろう。生存本能によるものなのか、それとも彼等の純粋な知的活動によるものなのか。非常に興味がある。
勝手に研究材料候補に挙げられているとは知らず、アシュトンは座っているノエルを見つけたらしく小走りにやってきた。
「あぁノエルさん、会えてよかった〜。何か皆の注目浴びちゃってるみたいで恥ずかしかったんですよぉ」
確かにアシュトンの格好は目立つ。しかも彼がエナジーネーデの外の人間であるということをセントラルシティの大抵の住人は知っているのだ。嫌でも視線を集めてしまうだろう。
「どこかに用事でもあったんですか?」
ノエルは首を傾げた。自分が目立つ存在だということは当のアシュトンが一番よく知っているのではないか。目立つのが嫌にもかかわらず出掛ける理由とは何なのか。
ところが意外にもアシュトンは首を横に振った。
「いや、特にそんなものはないんだけど・・・。まあ、何となくね。
高い建物が沢山あって面白いから」
「はあ・・・そうなんですか。珍しいですか、そんなに」
「うん。エクスペルじゃお城みたいな高い建物って言っても、あの建物の半分も無いよ。どうやったらあんな凄いものが立つんだろう?一回建ててる所を見てみたいな」
「それはちょっと無理ですね」
龍が邪魔なので、隣から背もたれの無い椅子を引っ張ってきたアシュトンは首を傾げた。
「どうしてですか?」
「エナジーネーデではこうした建物は特に厳しく管理されているんですよ。それに気候はコントロールされていますから、その土地その土地に最適の建物が建てられます。一度建ってしまえば少なくとも何万年、という単位で建て替えられることがないんですね。アミューズメントが目的のファンシティなんかは例外でしょうが」
「そんなに・・・壊れたりしないんですか?」
「内装はともかく、建物自体は全く劣化しません。本当はもっと耐えるらしいですけれど、時々は気分を変えるためでしょうか・・・デザインを変えて建て直すんだそうです。まぁ、僕も実際に見たことはないんですよ。民家なんかはちょくちょくありますけれど」
「ちょくちょくって、一万年に一度、とか・・・」
「それはさすがに・・・ネーデ人の寿命はエクスペルの人達とさして変わりませんから、何十年かに一度位ですかね。探せば直ぐに見つかると思いますよ。
家を設計するのも一つの趣味になってますから、ひょっとしたらサイクルはあなた方の石造りの家よりも短いかもしれませんね」
「へぇ、ノエルさんって物知りなんですね」
アシュトンは心底感心した様だった。
「これ位のことは誰でも知ってますよ。辺鄙な場所で働いているせいか、僕は結構世間知らずな方ですからねぇ」
ノエルは目を細めて笑う。ウェイトレスが注文を取りに来た。彼女の注意がどうしてもアシュトンに向いてしまっているのがよくわかる。居心地の悪そうな彼の為に、ノエルは適当に二、三品軽食めいたものを注文してウェイトレスを追い払った。
「勝手に注文しちゃいましたけど、食べられます?」
「何だかすいません。食べる方だったら任せて下さい。僕が駄目でもこいつらが食べるから」
双頭龍は不服の啼き声をあげたが、アシュトンはとりあわない。彼は改めてノエルに向き直ると穏やかに微笑んだ。
「よかった、ノエルさんは普通で」
「え?」
「こんな事を言うのも変だとは思うんですけれどね、一昨日の事があってから・・・」
彼は一度言葉を切る。瞳が翳った様に見えた。
「僕はともかく、クロードの様子が・・・どう言ったらいいのか解らないんですけれど、とっても辛そうで。あ、こんなことノエルさんに言う様なことじゃないんですが・・・」
「いいですよ、聞かせて下さい。
僕も『仲間』なんですから、遠慮はいりませんよ」
実を言えば、嬉しかったのかもしれない。皆が自分のことで精一杯の様であったから。ノエルは先を促した。
「僕っていうよりは僕等と言った方がいいですね、エクスペルに住んでる僕等よりもクロードの方が辛そうなんです。それからオペラさんとエルネストさんも。
・・・変に気を使っちゃってるんだと思うけど・・・」
「それは、まあしょうがないことじゃないですかねぇ」
「でも、このままでいたら皆の間に溝が出来ると思うんです。そういうのって哀しいじゃないですか」
「どうしてクロードさんの方が辛いのか、それは解るんですか?」
ノエルにはクロードの苦悩が、そしてオペラとエルネストの辛さが容易に想像出来た。と同時にアシュトンが彼等の状態を察知したことに驚いた。
「よくは解らないけれど、クロード達の家はエクスペルには無いっていうから・・・そのせいじゃないかなぁ・・・」
首を捻っているアシュトンには、やはりクロードの苦悩の本質が解らない。けれども人一倍孤独を嫌い、人の心情に敏感な彼だからこそ勘付いた事実だったのだろう。ノエルはもう一度、クロードがどういった心境にあるのかを考えてみる。彼は二人のテトラジェネスに比べても極端に口数が減っていた。レナと買い物に出掛ける時も、相当無理をして普通に振る舞おうとしていた。
「似ていますけれど、多分、もう少し根の深いものだと思いますよ」
「それって・・・?」
「あなたにクロードさんの気持ちが解らないのと同じ様に、クロードさんにも、あなたの気持ちは解らないでしょうね。問題はクロードさんがそれを割り切れない所にある・・・きっと一番辛そうなのはクロードさんなんでしょう?」
オペラさんやエルネストさんよりも。ノエルはそう付け加えた。
アシュトンは彼等の様子を思い出そうと眉根に皴を寄せる。背中の龍が何か言った。しばらく、独り言の様に彼は双頭龍と話していたが、結局ノエルの指摘通りだという結果に落ち着いたらしい。
「どうしてなんでしょう?僕にはよく解らない」
「これはクロードさんの問題ですからねぇ。他人がどうこうできる問題ではないんです、きっと。
彼自身が問題の本質に気付けば、話は簡単・・・でしょうけれど」
「じゃあ、オペラさん達は?」
「あの方達は、クロードさんよりももっと物事をよく知っています。
逆に言えば、クロードさんはまだ若いんですよ。
年齢というか、経験的にね」
「はぁ・・・」
問題が漠然としていていまいち理解しているとは言い難い返事をアシュトンは返す。
「まぁ、人の心は複雑ですし、僕の言っていることだって本当かどうか判りませんけど。
それはそうと、アシュトンさんは強いんですね。もう、克服している」
主語の抜けた言葉に理解が一瞬遅れた様だった。ノエルが感心したように見るので、青年は居心地悪そうに頭を掻いた。
「克服だなんて、そんな格好いいことしてませんよ。はじめは頭が真っ白になりましたし、今でも胸が締め付けられる気がします。体全体がちりちりして、冷たくなる感じで・・・不安です、とても。
僕なんかにあいつらが倒せるのか正直言って自信がありません」
「でも、あなたはレナさんとは違う様ですよ。ボーマンさんとも」
「・・・ボーマンさんにはニーネさんがいるから。レナはとても優しいし・・・それに、レオンだってまだまだ子供ですし・・・プリシスにだってお父さんがいる。僕はきっとレナ達に比べて喪失感が少ないから大丈夫そうに見えるんじゃないですか?
あぁ・・・、僕って結構薄情な奴かもしれませんね」
アシュトンは苦笑した。
双頭龍が何事かを喉の奥で洩らす。慰めるようなその音の意味がノエルには何となく解る気がした。
「あなたはとても優しい人ですよ。いつも先を見ているんです、だから余裕があって他のことがよく見える。
全然薄情なんかじゃありません、もっと自分に自信を持たなくちゃ」
「そういうものなんですか?」
「そういうものなんです」
料理が運ばれてきたので二人はそこで一旦話を中断し、冷めないうちに食べることにした。
★
「本当にいいの?」
「何が」
「何って・・・」
いつもより歯切れの悪い物言いの彼女を目の前にして、レオンは大仰に溜め息をついて見せた。本日何度目の「本当にいいの?」であろうか。
「あのねぇ、僕はプロなんだ。受けた仕事はきちんとこなすよ。
どんなことがあってもね」
小さい手がパネルの上で踊り、モニターに次々と文字を表示させていく。それは愛の場に出現した敵とエクスペル人の紋章力を比較した論評の結論部分であった。最近は万年筆よりもワープロソフトの方が使い勝手がいいらしく、隣から覗き込んでくるチサトの方を見上げながらも手は休めずに、怒涛の勢いで文章が組み立てられていった。
「それよりチサトお姉ちゃんこそ自分の仕事はしないの?」
レオンには相手が何を心配しているのかが解っていたが、別段干渉して欲しくもなかった。そんな思いから出たこの一言は、しかしあまり意味が無かった様だ。チサトは器用に指先でペンを一回転させて告げる。
「私の仕事はもう終わっちゃったのよ。後は皆がやってくれるからね」
「あ、そ」
他に何も言うことが無かったので、レオンは顔を前に戻して指を動かすのに専念する。相手が何も言ってこないので、思う存分原稿に集中することが出来た。
チサトはそれから暫くは何処からともなく取り出した携帯端末で何かのやりとりをしていた様であったが、やがて再び口を開いた。どうやら本当に仕事が無くなってしまったらしい、とレオンは思った。
「・・・レオン君、あんまり無理しなくていいわよ。本当にもう充分だから」
「え、何て言ったの?」
ネーデ新聞社の喧騒は相変わらず、いやひょっとすると朝よりすごくなっているかもしれない。周りがうるさいと、更に全員がそれに負けない声を張り上げるものだから、二人の会話などすっかり掻き消されてしまっている。切れ切れに聞こえる音と唇の動きで、何となく相手の言葉が推測出来るだけだ。レオンの敏感な耳はこの騒音を嫌ってすっかり伏せられてしまっていたので、ますます相手の声は聞こえない。
「無理しなくていいわよ、って言ったの!」
「あぁ・・・なんだ。でも、もう終わったよ」
五本目の記事を書き上げたレオンは椅子を横にずらして書き上げたものを見せる。
「こんな感じでいいかな?」
「はやいわねぇ」
驚く顔を隠そうともしないでチサトはそれを覗き込む。素早く画面に目を走らせて毎度の事ながら文句のつけようの無い内容に感嘆しかけ、彼女は珍しく相手のスペルミスを発見した。
「二箇所、スペルが間違ってるわよ。ここと・・・ここ」
「本当だ。何でこんなの間違えたのかなぁ?」
細い首を捻りながら、やはり細い腕が伸びて間違いを修正した。
「これでいい?」
「えぇ」
ありがとう、と笑いかけると、彼は照れたのかふいと横を向いて椅子から飛び降りた。それを微笑ましく思いながら、チサトは上がった原稿をしかじかの場所に保存するとレオンに尋ねる。
「レオン君、のど渇かない?」
「別に」
にべも無い答えと共にレオンは首を横に振ったが、朝からここで原稿を書いていたのだから絶対に疲れているだろう、とチサトは心の中で断定した。
「まぁいいじゃない。とりあえずお礼だからさ、好きなものおごってあげる」
「いいってば」
「もう、可愛くないんだから」
「あのねぇ・・・」
好きにしてよと溜め息をついたレオンを連れて、それじゃ編集長、と挨拶もそこそこにチサトはネーデ新聞社を飛び出すのである。
「レオン君はキャロットジュースが好きなんだっけ」
先程とは打って変わって静かであるシティホールの踊り場で、チサトは自動販売機の品揃えを確かめる。残念ながらキャロットジュースは置いていなかった。並んでいるのはコーヒーや栄養ドリンク等、いかにも徹夜明け新聞社員の為の飲み物ばかり。辛うじてあったのは一日分の食物繊維が摂れるという触れ込みの、野菜ジュース。確かにこれはこれでなかなかいける味ではあるのだが。
「ミックスジュースでいいかな?」
「いいよ」
ガコン、と出てきたカップに冷えたジュースが注がれる。少年に渡すと、彼はそれを瞼に当てた。
「やっぱりワープロ使うと目が疲れるなぁ・・・」
つい最近ワープロソフトのある世界に来たとは思えない台詞を呟くと、レオンは欠伸を一つ洩らした。
「眠い?」
「うぅん、空気が悪かったんだよ。外に行かない?」
一息にジュースを飲み干したところを見ると、喉は渇いていた様だ。それに疲れてもいる。さて、今のレオンの心境を慮るとするならば、自分は一体何をすればいいのだろう?チサトは胃の痛くなる自分を感じた。
エクスペルが消滅したのはエナジーネーデが衝突した所為である。無論チサト一人の力でどうこう出来る事ではなかったが、何となくネーディアンとしての責任は感じてしまっている。それは何となくエクスペル人と話しにくい、という様な、あくまで『何となく』な感じではあるのだが。
それが、こんな小さな子供を相手にしようとする際には如実に顕れる。仕事をしている時はいい、だがこうして長すぎる午後を潰す為にはどうしても会話をしなければならないのだ。
「あ、そうそう、休憩するのにいい場所知ってるんだ。美味しいケーキのお店。
なんとタイムサービスで食べ放題たったの398フォル!」
「・・・何か勘違いしてるみたいだけど、」
と彼は振り返った。
「僕はエクスぺルが無くなったことなんか全然気にしてないんだからね。
必要なものはみ〜んな、頭の中にあるんだから。だからチサトお姉ちゃんが気を使う必要なんて無い」
さらりとした頭髪に人さし指を半ばまで埋め、レオンはぼそりと言った。
「私はそんなつもりじゃ・・・」
言葉に詰まった彼女の表情は、少年の指摘が明らかに図星であった事を示していた。
「チサトお姉ちゃんって、すぐに顔に出るんだよね。
朝からそうだったけれど、本当に何にも気にしなくていいんだから」
レオンはまだあどけないと言ってもいい顔でチサトを見上げたが、視線だけは、ただの子供のものではなかった。
レオンにとって、絶望とは既に体験済みのものだ。荒れ狂う波に呑まれたフロリスとマードックが何処にも見つからないと知った時の絶望と、今の気持ちは比べるべくもない。更に加えれば、思い悩んでパーティ全体の士気を下げる愚を冒す気も無い。
希望がある、たったそれだけで人の心は救われるのだとレオンは説教しようと思って、止めた。いかに天才と称される少年であろうとも哲学者ではなく、口に出そうとした事が普遍のものであるという自信が無かったからだ。
「とにかく、僕は非論理的なことは嫌いな主義なんだよ。大体、この戦いに勝てばエクスペルは戻ってくるんだからさ」
「レオン君・・・」
奇異とも思える程に淡々とした十二歳の少年に気付かれない様に、チサトは右手に握っていたままのペンに力を込めた。この少年は、ことの意味を果たして理解しているのだろうか。惑星一つが失われたというその意味を。
チサトはエクスペルにいた頃のレオンを知らない。だからチサトには解っていた。
自分が相手を知らないという事実・・・そう、これは『自分に解る筈の無いこと』なのだ。
ただ、あまりにも目の前の少年は無感動に見えた。彼女に彼女自身の基準を押し付けるつもりは毛頭無かったにしても、この少年の反応が彼女には気に食わなかったのだ。
何も出来ない自分がいる。そんな現実へのささやかな反抗として、だからチサトは断言する。
「な〜に言ってるのよ。母星を失って気にならない人なんているわけないでしょう?
やけ食いぐらいしたっていい筈よ!!」
ぐっと拳に力を込めた新聞記者に、
「あのねぇ・・・お昼も食べてないのにケーキを食べるの?チサトお姉ちゃん」
と、突っ込みを入れて涼しげに笑ったレオンは他の仲間の言う通り、確かに小憎らしかった。
★
小さな喫茶店だったが時間のせいか人は多かった。
クロードとエルネストは通りに面した窓際の席に座っていて、窓ガラスはうっすらと二人を映しこんでいる。
「エルネストさんは、他にもこういうことにあった事ってありますか?」
相対して座すクロードの眼は真剣だ。
彼が年齢以上にものをよく考える青年であることを、エルネストは好ましく思っていた。この歳で連邦の少尉だと聞いた時には驚いたものであるが、彼の優秀さは既に今までの旅で実証されている。決して親の七光りで・・・と言ってもエルネストがより知っていたのは母親の方であったが・・・何も考えずに用意された道を歩いて来たのではない、絶えず人生において自問自答を繰り返し続けてきた眼がエルネストに問い掛ける。
「こういうこと、というと?」
「相手とは絶対的に立場の違う状況です。余りにも違いすぎて掛ける言葉も見つからない様な。
例えば今の僕と、レナ、例えば僕とボーマンさん・・・
僕、これからどう接していったらいいのか全然解らないんです」
クロードの思い詰めた眼に、エルネストは深い溜め息をついた。この青年はまだ若い、そして経験不足だ。
「まあ、職業柄あちこちの惑星を巡っているわけだから、そういうことは何度かあったな。
さすがにここまで極端な例には遭遇したことが無いが」
「そうですか・・・僕なんて航宙自体ほとんどしたことがなかったんです。未開惑星に降りたのも初めてで・・・エクスペルに転送されて、最初は右も左もわかりませんでした」
クロードは思い起こす。清浄な空気、撒いた様に空に拡がる星々、抜けるような青空に、真紅の夕焼け。ゆったりとした時間が流れ、その中で生を紡ぐ人々。そこで、彼はレナに出会った。
「でも、僕はエクスペルが大好きなんです。
・・・あの星の住人だったらよかったのに」
あの星の人々と同じ気持ちを共有したかった。
「本当にそう思うか?」
「・・・解りません。
でも、そうなりたいという気持ちはあるんです。レナといると、自分が汚れているって感じがして。レナは、自分で感じる色々なことをとても素直に受け容れている・・・でも、僕は違う。何かと理由を見つけては自分の思うことを曲げているんです。今回の事も・・・レナ達に何か言いたいのに、こんな自分に言う資格はないんだと思ってしまう。これじゃあいけないって解っているんです。
でも、何も出来ない・・・どうしてなんでしょう?僕とレナが同じだったらよかったのに・・・」
「クロード。どんな奴でもそれぞれ立場というものは違うものだ。あまり自分の価値をおとしめない方がいい」
「価値、ですか。僕は結局何も出来なくて、誰の役にも立てないんじゃないかとそんな気がしますよ」
「クロード」
食後のコーヒーを待たずにクロードは立ち上がった。何か言おうとするエルネストを制して彼は真顔で言う。
「すいません、御心配おかけして。話を聞いてくれてありがとうございました。僕、ちょっと頭を冷やしてきます」
一人残されたエルネストは再び、長い長い溜め息をついた。俯き加減の疲れた顔を、くすんだ金の髪が隠す。彼は小さく首を振った。
「・・・重症だな、あれは」
多分、あのパーティリーダーと同じ気持ちをエルネストも体験したことがあっただろう。
クロードはまだ気付いていない。彼の辛さはレナ達と同じ場所にいないことに起因しているのではなく、むしろ同じ瞳を持っているからこそ辛いのだという事実に。クロードは既にレナと同じ場所にいる・・・いや、それは言い過ぎかもしれないが、そこがどんな場所であるかを知っている。彼女の瞳から世界がどの様に見えるのかを想像することが出来る。だが、彼には同時に彼自身がそれまで持っていた瞳というものがあるのだ。
これらの瞳はある一つの事柄を全く別々に映し出し、その情景は決して一つに重ならない。同時に存在し得ない。それは地反転図形の様なものだ。一方を見ている間、他方を見ることは出来ない。あの複数の意味を持つ絵の様に。
こんな当たり前のことを気付くのに、人はどれだけ時間を要するのだろうか。
映し出された異なる情景を無理に統合しようとし、出来ないことに絶望した姿がクロードなのだと、そうエルネストは思う。
では今の自分自身はどうなのか。かつてのクロードの様に問題に直面し、そしてどう克服したのだろう。
・・・知るか、そんなこと。
解っていればクロードに的確なアドバイスをくれている筈。結局、自分でもまだ答を見つけ出せてはいないのだ。
クロードが席を立ってから数分が過ぎたが、店員は忙しいのか食器を下げに来ない。彼がコーヒーを啜りながらぼんやりしていると、大通りと店内とを仕切っている大張りのガラス越しに艶やかな金髪の女が猛然とやってくるのが見えた。何故かは解らないが、こちらを睨んでいる様な気もする。
女は遠近法的にどんどん大きくなり、ついには店の入り口から店内に進入してきた。そして開口一番、
「エル!誰と食事してたの?!」
・・・と、こうである。店中の客が彼女の方を向いたのでさすがに黙って足早に彼の座るテーブルに来ると、クロードの座っていた場所に座る。低く頬杖をついて見上げる瞳は半眼であった。今までの雰囲気が殺がれてしまってエルネストは内心、やれやれと肩を竦めた。
彼が誰と食事していようが彼女はそれを止めようとはしない。それは彼の面子を潰すことになるからだ。
ただ、後が怖いのである。全くこのヴェクトラ家の長女ときたら。我が教え子ながら末恐ろしいものがあるかもしれない。
「誰と言われてもな・・・クロードなんだが」
「クロード?」
オペラは驚いた様に相手の顔を見た。表情に、徐々に理解の色が広がる。
「・・・そう、クロードだったんだ。よかった♪」
「・・・大体こんな所で誰と食事すると思うんだ、お前は・・・」
「だって、エルったらもてるんだもの。こんな所まで追いかけてきて盗られちゃったらたまらないわ」
オペラはクロードのものであったまだ温かいカップを優雅な手つき取上げ、一口飲む。
「でしょ?」
「そうなのか?」
「そ♪・・・それで、クロードの調子はどうだった?」
唐突に話題が換わる。
エルネストは彼女に簡単に状況を話してやった。
「深刻だったな。本人は頭を冷やしてくると出ていったが」
「あの子は本当、悩む子なのよね。もう少ししゃきっとしなさいって言いたくなっちゃうわ」
「まだ若いからな」
「あら、それって私が年増だって言いたいのかしら?」
「いやいや。偉大なるヴェクトラ家のお嬢様と比べるのは酷だろうということさ」
「エル、家の話は置いといて。・・・とにかく、クロードももうちょっとこう、さくさくっと考えられるといいのに」
オペラは丁寧にカップを置いて再び頬杖をつく。
「自分は自分、相手は相手。こっちが誠心誠意対応して上手く行かないんだったらそれまで。諦めもつくってものよ。でもあの子は、自分で自分の首絞めちゃってるのよねぇ・・・それ以前の問題だわ」
「そこまで割り切るのも難しいだろう」
「でも、いちいち悩んでたらきりが無いわ。そんなことで悩んでる暇があったら、少しでもレナを慰めてあげる方法を考えた方がよっぽど建設的だと思わない?『慰める資格』なんて、クロードは別に考える必要なんて無いと思うけど。・・・大体、そんなことは慰めてあげた後に何か言われたら改めて考えればいいことなのよ。どうせ答えなんて探すだけ時間のロスなんだから」
「その台詞をクロードに言えたら褒めてやるがな」
「人に言われてはいそうですかって納得なんてするわけないわ、あの子。頭ごなしに決めつけられても却って反発するんじゃないかしら?」
「よく解るものだな」
エルネストが感心すると、オペラは澄ました顔で言った。
「私がそうだったもの。伊達にお嬢様してるわけじゃないんだから」
「成程。とすると、俺の場合は?」
「あら、エルはとっくの昔に答えを出してるんじゃないの?そう見えるわよ」
やっとウェイターがやってきて食器を片付け始める。手際よく、彼はたった一度で二人分の全ての皿を腕に載せ、ボールを載せ、持っていってしまった。テーブルには二客のコーヒーカップだけが残る。
オペラは窓越しに見える広場の方を眺めながら言った。
「結局、クロードの欲しがってるものって、何処にも無いのよね」
エルネストは頷く。
「ああ、そうなんだろうな」
いかに第三の瞳がを持つ彼等であろうとも、別々の価値観によってある事実を同時に見ることは出来ない。
まあ、あんまり悩んでレナのことを忘れないようにね・・・オペラはそう、青年に呟いた。あんまりひどかったら一度くらいは活を入れてあげようかしらと、そう思いながら。
★
駄目だなあ、僕は。僕が落ち込んでる場合じゃないのに、エルネストさんには余計な心配かけちゃってるよな。
当のクロードはオペラやアシュトンにも十分心配をかけていることに気付きもせずに、無目的に足を運んでいた。彼には一応『頭を冷やす』という立派な目的があったのだが、何も考えずにただ歩くというのは難しい。知らない内に思索の糸が紡ぎ出されていて、当初の目的は全く果たせずにいる。
解ってる・・・筈、なんだけどなあ。
気にしてもどうしようもない事なんだけれど。でも、本当にそれでいいのか、と思ってしまう自分がいる。
どうやって接したらいいのか全然解らない。
今回のことで自分がレナ達と仲間でなくなる・・・そんな事は一度たりとて考えたことはないが、それでも、今までと同じ様にやっていけるかとそう問われれば、やっていけそうにないと答えるだろう。
じゃあどうすればいいんだ?実際に。
答の見えない自問自答が続く。エルネストが既に自分自身の答えを出していることは、話していて解った。彼にクロードの様な迷いは無い。
まあ、それは当たり前だろうけれどさ。
「おやぁ、クロードさんじゃないですか?」
クロードの心境に全くそぐわない、気の抜ける様な声が掛けられた。非常に心当たりのある声である。
「ノエルさん。こんな所で一体何を?」
ノエルは、何故かファンシティ宣伝用の等身大バーニィ人形の前に立っていた。巨大ウサギのこの人形は非常に上手く出来ていて、耳からなにから本物の様である。ノエルはこの人形のお腹を撫でながらクロードに声を掛けたらしい。
彼は足を止めたクロードの方を向いて言う。
「この人形、すごく手触りがいいんですよ。一緒に触ってみません?」
「はぁ・・・そうなんですか?」
いまいち釈然としない気分であったが、何となく逆らえなかったので言われるままにクロードはバーニィ人形を撫でる。ノエルの言う通り、ふかふかの毛皮はバーニィそのものであった。
「いいですね、これ」
「でしょう?でもこれ、本物の毛皮じゃないんですよ。すごいですよねぇ」
「何か一家に一つあってもいいなぁ。でも高そう・・・」
こうして、しばしバーニィ人形の触感を堪能した後にクロードは改めてノエルに尋ねた。
「まさか・・・ずっとここで人形触ってたんですか?」
「いやぁ、そんなことないですよ。さっきまでアシュトンさんとお昼食べてたんです。宿に戻る途中でこれに捕まっちゃいましてね。実は前からちょっと触ってみたかったんですよ〜」
ふわふわした猫っ毛に細めた眼でのんびりと答える。この人、本当に最重要保護区を一人で任される様な動物学者なのだろうかという疑問が脳裏を掠めた。
多分、怒らせると怖いんだろうな。クロードはそう思ったがさすがに本人には言えなかった・・・。
「さて、そろそろ帰りましょうか。クロードさん、あなたはどうします?まだどこかに用事でもありますか?」
「えーと、特には無いんですけど・・・いや、無いです」
「じゃあ戻りますか。・・・あ、そうだ。
すいませんけどもう一ヶ所、寄ってもいいですか?」
どうして自分に聞くのだろうと思ったが、ノエルの視線にから察するにどうやら一緒に来て欲しいという意味の様だ。どこですか、とは聞かずにクロードは軽く頷いた。ノエルと一緒にいると、妙に心が落ち着く気がする。
ところどころ白い千切れ雲の飛んでいた空は快晴に変わっている。この空ってある意味紛い物なんだよなぁ、と思いながらもクロードはその空の高さに吸い込まれた。
歩いた時間はさして急がずに七、八分と言ったところか。
「ここからだと広場がよく見えるんですよ」
町の中心から伸びてくる階段の上に立ってノエルが呼んだ。
「僕はこの町があまり好きじゃないですけど、いい眺めでしょう」
シティホールはセントラルシティの中でも高台部分に建てられている。その小高い場所に宿もあったわけであるが、こうしてゆっくりと町を見下ろしたのは初めてだった。都市計画に則って整然と整えられた町は、程よい緑が添えられて、とても美しかった。
「本当に綺麗ですね」
「そうでしょう。まぁ、僕の本命はこっちなんですけど」
ノエルはしゃがみこんで何かをしている。たちまちそちらからワンワンともキャンキャンともつかない盛大な鳴き声がわき起こった。
「その犬、知っているんですか?」
豪邸の庭を囲む豪奢な柵に鼻面を押し付けるようにして二頭の犬が尻尾を振っていた。ノエルにとてもなついてる様だ。尻尾のふさふさした犬で、ノエルが手慣れた感じで撫でてやっている。
「僕が保護区の管理を任された時に、何度かセントラルシティまで足を運んだことがあったんですけれどね。その時に知りあいになったというか。結構長生きなんですよ、こんなに元気ですけれど」
「ちゃんと覚えてるんですね。よく会いに来るんですか」
「ん〜・・・そうでもないですねぇ。そもそもこの町自体に来ませんから。でも、彼等はちゃんと覚えていてくれるんです。
却って僕の方が会いに来るの忘れてたりして」
ははは、とノエルは笑った。
「僕も、撫でさせてもらっていいかな?」
「大丈夫ですよ。人見知りしませんからね」
犬の毛並みはよく手入れされていて、バーニィ人形とは違った生きた毛皮の手触りはとても温かかった。
ラティを思い出すなあ。クロードは犬の首の長い毛足を掻いてやりながらぼんやりとそう思う。
「クロードさん、犬の扱い上手いですねぇ」
「昔、飼ってたことがあるんですよ」
無条件に自分に懐いてくる動物の存在は、束の間クロードの心から薄暗い問題を忘れさせてくれた。ノエルは立ち上がってクロードにより広く場所を空けてくれる。彼の手を離れて、もう一頭の方の犬もクロードの方にやってきた。
「まぁ、しばらく構ってあげてくださいな。
・・・次に来るのはいつになるかわかりませんしね」
熱心に犬に構い続けるクロードを一歩下がって見守るノエルを、階段の下から吹き上げてきた風が打つ。
吹き飛ばされそうな気さえして、ノエルは町を見下ろした。整然と広がる都市は何億年も前から変わることなく、これからも変わることはないのかもしれない。彼は口を引き結んだ。この動かない世界に閉じ込められたまま変化無く生き続けるネーディアンの存在に、一体どんな意味と価値とがあるのだろう。異質なものと交わって行く力を捨てた文化、それがネーデだ。だからクロードの苦悩は、ネーディアンには無縁のものであった筈である。それこそ、エナジーネーデには宗教的文化的対立も無い、完全な単一民族社会なのだから。
それが今になって・・・十賢者?
過去の遺物でしかないと思われていた狂信者の出現でエナジーネーデはかつて無い混乱を迎えている。弱肉強食の法則が適用されれば、エナジーネーデの住人は全滅するだろう。そうならないだけの底力があるとは、ノエルにはどうしても思えなかった。多分クロード達がいなかったなら、或いはネーディアンは十賢者に屈していたのかもしれない。どれだけ辛くても戦い抜くだけの強さはここに存在しないだろう。
『何か』があることを期待するならば、そこに存在するのは恐らくかつての栄光に因る義務感と、先の見えているという諦観だけ。それが一体どの様な結果を引き起こし得るのかは・・・考えたくもないものだ。
ノエルは、ナールから改めて聞かされた言葉を思い出して顔をしかめる。
「全く。本当に迷惑な場所ですよ、ここは。全く罪作りな場所です。
自分の始末も自分でつけられないで十賢者も何もかもこんな子におしつけて。何が『異質の力』なんですか。
安定を求めて自らを同質にしたのがネーディアンだというのに・・・それを今更勝手なものだ」
彼の姿が一瞬揺らいで普段は紋章術で隠している部分が現れ、再び消える。
若き『変わりだね』の動物学者の、軽い呪詛さえ籠った呟きは誰にも知られる事無く、風に溶けていった。
「ノエルさん?」
彼はゆっくりと振り向いた。
「あぁ、クロードさん。もういいんですか?」
「ええ。とっても可愛かった。また機会があったら一緒に来たいな」
クロードの表情は会った時よりも随分明るくなっている。動物と接することは、時に人の心を癒す。苦悩を直接解決するのではないが、問題に取り組もうとする精神そのものの疲労を癒してくれる。もしかしたらクロードの悩みを軽減出来るのではないかとここに連れてきたノエルであったが、効果は十分にあったらしい。ほんの短時間の触れ合いの筈なのに、クロードに先程までの思い詰めた様子は無くなっていた。
同じ動物でもサイナードでは意志疎通に時間がかかるだろう、と知り合いの犬を紹介したノエルとしてもこれは嬉しい。クロードの提案に彼はのんびりと答える。
「いいですねぇ、来ましょう来ましょう。今度は皆と来ましょうか?」
「皆と来たら来たで結構アヤしいかも・・・」
二頭の犬は大層クロードのことが気に入ったらしい。二人が来た道を引き返す時には柵に前脚をついて立ち上がり、いつまでも尻尾を振って見送ってくれていた。
「クロードさん、何か悩み事があるんですか?」
ノエルは穏やかにそう切り出した。同時にクロードの歩調が少し落ちる。
宿まではまだ距離があった。
「え・・・やっぱり解ります?」
「解りますとも。アシュトンさんも心配していましたよ」
「アシュトンが・・・悪いことしちゃったな。僕なんかのことで気を使わせて・・・」
「僕の見たところ、アシュトンさんとレオン君にオペラさんとエルネストさん、それからディアスさんも心配してるんじゃないかと思いますけれど」
俯くクロードにノエルは更に追い打ちをかけた。
「エルネストさんはともかく、そんなに皆が知ってるんですか?!
しかもディアスまで・・・」
クロードとディアスの関係がまだよく掴みきれていないノエルだが、クロードにとってディアスとは、あまり弱みを見せたくない相手らしい。
「だってクロードさん、目に見えて落ち込んでましたよ」
「そうかなあ・・・?」
出来るだけ普通に振る舞おうとしていたクロードの努力はあまり報われていなかったらしい。自分の演技力の無さに少々情けなくなる青年であった。
「もしよかったら話してもらえませんか?
力になれる、なんて簡単には言えませんけれど」
純粋に自分のことを心配してくれる人がいる。数ヶ月前から当たり前の様に始まったこの感覚。クロードにとって、どんなにこの『人の思いやりに裏打ちされた気づかい』が有り難かったか。彼がこれに応える術は、素直に自分の胸の内を語ることだった。
「端的に言ってしまえば、これから僕はレナ達にどう接していけばいいのか解らなくなってたんですよ。何かしてあげたいのに、何をするべきなのかがよく解らなくて・・・例えば何か言葉を掛けるにしても、言葉を掛ける資格なんて無いんじゃないかと思ってしまう。だって僕にはレナ達の気持ちが解ってないんですから。所詮、エクスペルの外の人間でしかないんだって・・・でも、だからって何もしたくないわけじゃないし。よく、解らないんです」
ノエルは黙ってそれを聞いていた。エナジーネーデはいわば超先進国家であるから、クロードは躊躇い無くネーディアンである彼に話すことが出来た。エルネストと話した時に比べ、今は幾分気持ちが軽くなっているので思いを口に出し易い。
いつの間にか、二人の歩みは止まっている。
「それじゃあ、クロードさんは結果的に何もしないんですか?」
「・・・ええ。そういうことになりますね」
事実を突きつけられただけだった。が、その言葉にクロードの胸は騒ぐ。
ノエルは彼の動揺を知ってか知らずか、話し続ける。
「それがいいことだとは思っていないわけですよね」
「まぁ・・・いいことだとは思いませんけど・・・」
「でしたら、とりあえず何かをしてみたらどうでしょう。
何も出来ないんじゃないかと脅えているよりも、出来そうなことをやった方がいいと思いますけれど」
簡単に言われて出来ることなら、こんなに悩みはしない。ここは同意すべきところなのか?クロードは困った顔でノエルに応じた。心は徐々に冷めていく。
「でも、何をしたらいいのかすら解らないんですが」
所詮、外界との交流を絶ったネーディアンには解らないことなのだろうか。認めてしまえば、自分とエクスペル人も『所詮違うもの』として処理されそうで、信じたくなかった。少なくとも、クロードとレナよりは、彼とノエルの方が感覚的に近い筈だ。クロードは、小さく首を振る。
「『自分だったら何をして欲しいのか』っていうことを考えてみたらどうですか?他に基準になるものは何もないんですから」
「でも、自分を中心に考えるのは正しいことだとは思えません。
自分が間違っていたら、相手にも迷惑がかかります」
「うーん、難しいですね。だけど、別に『これをすべきだ』っていう答はどこにも無いんですよ。何もやらないよりは何かした方がいいと、クロードさんが思うのならば、何かをしてみればいいんです。
それがいいのか悪いのか、答は後からついてくるんですから」
「・・・それって、怖くないですか?結果が悪かったら・・・」
青年は絞り出す様な声で言った。
「僕とレナは違いすぎる」
対するネーディアンは一瞬間を置き、次に、初めて語気鋭く言い放った。
「いいえ」
その語調にクロードが驚いたのに気付くと、ノエルは再び元の穏やかな語りに戻って先を続けた。
「極論、僕達は皆、同じではない。クロードさん、僕とあなたとが、あなたとレナさんよりも近い立場にある・・・そう思うことこそが既に間違っていることなんです」
ノエルは思う。
同じ様に、エナジーネーデの人々の『我々は十賢者と同質であり、エナジーネーデの外の者達と異質である』という認識も間違っている。確かに彼等は似ている。だが、同じであるという思い込みによってこの人々はより、十賢者に近づこうとしているのだ。
クロードは『レナ達とは違う』という意識から、本来の位置よりも自身と相手の距離を広げている。
全ては思い込み。本来の位置は、誰もが等間隔で、だから誰も違わない。
「だから、『違うから』という理由はするべきことをしない言い訳にはなれません。大丈夫」
強い風が埃をまきあげた。咄嗟に目を細めるクロードが一瞬見たのは、明らかにネーディアンとは違う、ノエルの姿であった。
「ノエルさん?」
「決して全てを同じに扱えというのではありません。けれど、何もしないで後から悔やむよりは、あなたに出来る最善と思うことをするのでいいと思います。・・・やっぱり、そうは思えませんか?」
それきり何も言えなくて、クロードは曖昧に頷いただけだった。
「なんだか説教臭くなっちゃいましたね、もうこの話は止めておきましょう。こういうことは、自分の問題ですからねぇ・・・
力になれる、なんてクロードさんも人には簡単に言わない方がいいですよお」
ノエルは全く普通の様子で、済まなそうな表情を浮かべた。
・・・今のは何だったのか?クロードは彼に詮索の言葉を投げ掛けようとして、止めた。いずれ判ることなら判るし、判らないことならば、聞いても無駄なことだ。
★
いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
ああ、私はディアスの部屋に来て・・・ようやく意識がはっきりしてきたレナは起き上がって部屋を見回した。誰もいない。
ディアスはどうしたのだろう。レナは扉をそっと押して外へと出る。
「やっと起きたか。
頭を冷やせとは言ったが、寝ろとは言わなかったがな」
彼は窓際に立っていた。少しだけ顔をこちらに向け、からかう様に言う。
「・・・・・・」
顔を赤らめて俯いたレナに、ディアスは彼にしては珍しくくつくつと笑って、彼女の隣に立った。
「もう大丈夫だな?」
「うん」
「だったらクロードの所に行ってやれ。あいつもお前に負けない程に落ち込んでいたぞ」
「クロード・・・が?どうして」
「さぁな、本人にでも聞いてみろ。俺は寝る」
お前にベッドをとられたからな。ディアスはそう言い残して部屋に戻っていったので、レナは首を傾げながら、それでも彼の言葉の真意を確かめるべく階下へと降りることにする。
翳り始めた太陽に、部屋は薄暗くなってきていた。窓際から射す陽は男を照らすが、十分な明るさは無い。そして、その男以外に誰もいない部屋は実に静まり返っていた。
何の前触れもなく扉が音を立てた。細めに開いた隙間からひょいと顔をのぞかせたのは十五、六才の少女である。
「ボーマン?」
プリシスは、彼女にしては珍しく遠慮がちに声を掛けた。
しかし、反応は無い。
「ねーねー、ボーマン」
「・・・・・・」
彼女は自分の呼びかけに相手が何の注意も払わないので、ぷぅっとむくれてもう一度呼んだ。
「ボーマンってば!・・・ボーマン、ボーマン、ボーマーン!」
自分の名を連呼され、男はようやく扉の方を向いた。いや、行動よりも怒鳴り声の方が先だったか。
「だーっうるさいっ!聞こえとるわっ!」
「だって無視するんじゃん、ボーマンってば」
プリシスはやっと相手にされたのだと解ると、すたすたと扉向こうから彼の近くまでやってきた。
ったくこの小娘は。デリカシーというものが解っていないのだろうか?彼は結局六十八頁までしか読まなかった特殊紋章学理論(レオン・D・S・ゲーステ著)を閉じて「で、何なんだお前は」と机に頬杖をつき直した。
「あ、それってこないだレオンが書いた本じゃん。超難しそーだから全然見てないんだ、あたし」
「当たり前だ。お前なんぞに解る代物じゃない。普段はクソ生意気だが紋章学については天才だからな、あいつは。いつでもスチャラカなお前とは違うぞ」
「あ、ひっどぉーい。傷ついたよ、あたし。もう、そういうこと言ってると女の子に嫌われるよぉ?」
口ではそう言っているが、元気娘のプリシスに傷ついた様子は微塵もない。机に載っている分厚い本をひっくり返しひっくり返すと、興味無さそうに再び机に投げ出した。
「これは、今度レオンに解説してもらうとしてっと。
ボーマン、ちょっと落ち込みすぎ」
さらりと言われた。
プリシスはいつもと同じ様にポニーテールに結んだ髪の毛にいつもの明るい表情で、組まれた両腕だけが彼女の心境を現しているようだった。
まじまじと彼女を見つめるボーマンに、彼女は更に言葉を浴びせる。
「ボーマンがそんなに落ち込んだら、皆、何て言っていいか解んないじゃん。ニーネのことは、そりゃ解るし、あたしだって心配だけどさ。だからってそんな顔してどんよりしてたら、ムード、下がっちゃうよ。人にメーワクかけちゃいけないって、ニーネ言ってなかった?」
「プリシス、お前に」
そんなこと言われる筋合いがあるか、と言い返しそうになって彼は口をつぐんだ。プリシスとは同じ町の住人同士で、片や町の薬屋、もう片方は町の名物、変人発明家親子だったのだ。彼女も、同じ場所に父親を残してきている。
プリシスは呆れた風に片眉を上げた。今のボーマンの言葉をみなまで聞いたかの様に。
「あたしだって町に親父がいた。だからボーマンにもこんなこと言えるんだよ。
でもね、だったらクロード達はどうなの?オペラやエルネストやチサトやノエルは?誰も何にも言えないじゃん」
「・・・・・・」
「ボーマン先生、そんなことにも気付かなかった?落ち込むのもしょーがないとは思うけど、そろそろ止めて前向きになろ?
本当はうちらが気ぃ使わなきゃいけないんだから」
いつもと全く変わらない口調に高い声。しかし、彼女の口が語っているのは紛れもない正論であった。ボーマンは驚きに固まった表情で少女を見つめている。まるで頭から水をぶっかけられた気分だった。
プリシスはじぃっと彼の目を見ていた。別段その目には真摯さとか切実さとか、そういったものは映っていなかったが、何かを言いたがっている様には、見えた。
「プリシス、お前、本気でそう思ってるのか」
『誰も何にも言えないじゃん』『うちらが気ぃ使わなきゃいけないんだから』・・・あまりにもまともな意見である。プリシスは真顔で頷いた。
「うん。あたし、自称パーティのムードメーカーだからねぇ。やっぱりこういうローテンション発生源は何とかしなきゃいけないなって思うワケよ」
「ローテンション発生源・・・」
「そ。で、ボーマンったら断トツ一位で他の人まで引きずり込んでテンション下げるんだもん。まだまだ勝負はこれからなんだから、もっと先生には周りのこと考えてもらわないとね」
OK?と首を傾げるとプリシスは一瞬、ニカッと笑った。
彼女はこんな時でも笑っていられるのか。事実を突きつけられて、唐突にボーマンは可笑しくなった。何にだって?・・・勿論自分自身にだ!まさかこんな小娘に面と向かって諭されることになるとはな!!
彼は机に突っ伏して笑った。笑って笑って、目に涙が浮かび、声がしわがれて息の洩れる音だけになるまで笑い続けるその間、プリシスは何も言わずにそこに立っていた。だから、その時彼女がどんな顔をしていたのかは判らない。
「・・・俺も堕ちたもんだな。
ノイマンところの小娘に諭されるなんぞ考えたこともなかったぞ」
やがて、いい加減ボーマンが笑うのを止めて静かになると、プリシスは素っ頓狂な声で答えた。
「あたしだって、天下のボーマン先生にこんなこと言うなんてびっくりだよ」
お陰で、ボーマン先生はもうひとしきり笑い続けることとなる。彼女は元から大きな瞳をくるっと動かして天を仰いだ。実に不思議そうな声で呟く。
「何がそんなに面白いかなぁ?」
「それ、本気で言ってんのか?・・・よっし、お前、俺に付き合え」
「え?それってナンパしてんの?」
「バカヤロ、飲みに行くんだよ」
「え〜〜〜っ?それって先生の言うことぉ?つーか、まだ夕方だって」
「堅いこというない!」
ボーマンに引きずられてプリシスは能天気に叫んでみせた。
「ほえほえ〜」
★
「ちょっと御免よっ!」
急に飛び出してきた二人に危うくぶつかりそうになって、レナはあっという間に遠ざかっていく後ろ姿を見つめた。ボーマンとプリシス、だよねえ・・・そう思いながら数時間前とは全く違うボーマンの様子に首を傾げる。
クロードの部屋は空だった。外に出掛けているらしい。
レナは宿を出る。赤い夕日が目を射して、その先に誰かが立っている。
「やあ、レナ」
「・・・アシュトン?」
逆光でよく見えなかったが、そのシルエットは見間違えようもない。
「どうしたの、こんなところに」
「ん?ちょっとね。待ち人なんだ」
「ふーん。実は、私も」
「誰なんだい?」
「クロード」
「あれ?」
アシュトンは驚いた様だった。
「実は僕もだよ」
「何か用事でもあるの?」
「いや、そうじゃないんだ。ただ、何か急に話したくなってさ。何が話したいんだか僕自身、解ってないんだけれど」
「え・・・じゃあ、多分私とおんなじよ。私もよく解らないけど、クロードが落ち込んでるってディアスが言うの」
「へぇ、ディアスが。やっぱりそうなんだ・・・・・・」
一体何に納得したのか、アシュトンは二、三度頷いて、至極当然な疑問を口にした。
「それじゃあ、何を話したらいいんだろうねぇ?僕達」
二人は考え込んだ。夕日はますます赤くなる。結局、二人はこう結論づけた。
『考えてもしょうがないから、後で考えようか』
まぁ確かに、案ずるよりは産むが易しとは先人達の格言だ。
やがて待ち人は現れた。ゆっくりと、誰かと道を歩いてくる。しかしただ道の一点を見つめていて、前方にいる二人には全く気付いていない様だ。
近づくにつれ、隣を歩いているのがノエルだということも、クロードがひどく何かの考えに没頭している様だということも見えてくる。ディアスの言葉が胸をよぎって、レナは唐突に不安になった。クロードは今まで自分の事をほとんど話さなかった。いつも独りで何か抱え込んでいる感じがして、それが彼が『地球人』であるが故のことだったということは、エナジーネーデに来てから知ったことである。
今も彼は独りで思いを抱え込んでいるのか。・・・たった独りで?
「クロード!」
クロードは顔を上げ、レナを認めて驚いた顔をし、困った様に笑った。レナは哀しくなる。そんな顔をしないで欲しいのに。どうしてそんな顔をするの?
彼女は走り出す。
そうだ。何かを話さなければ・・・いや、話したい。
★
「まあ、なんだな」
エルネストはグラスを傾ける。一階のバーの常連客に交じって、どうにも浮いている隣の動物学者を感心した風に見た。
「さすがは動物学者、と言ったところか?」
「何ですかそれは。人聞きが悪いですねぇ」
「クロードが元に戻った。これでも褒めているんだがな」
「褒めてるって、どこがです。
・・・考古学者さんも相談にのってあげていたんでしょう?」
「いやいや。俺のはそんなんじゃない。・・・そういえばこのパーティって学者人口が多いな。三分の一が学者だぞ」
カウンターの角で上機嫌に、しかしほとんど潰れかけているボーマンと完全に潰れたプリシスを見て、プリシスもそのうち機械工学者にでもなるのだろうかと思ったりする。
「あ〜・・・気持ち悪ぅ・・・」
何故か胸焼けを起こしているチサトが迎え酒よと謎の言葉を発しつつ、バーテンダーに三杯目のカクテルを注文している。長い耳はすっかり赤く染まっていたが、尚もハイペースで酒を空けていく彼女は実に楽しげだ。隣にいるのが、呆れた顔を隠しもしないレオンだからなのかもしれない。
少年が自分に呆れている間だけは、ひょっとしたら(あるか無いかも判らない)心の痛みを忘れてくれるのではないだろうか・・・そんなことを彼女は思っていたのかもしれない。勿論、それは傍から見ていたノエルの単なる推測でしかなかったが。
「チサトお姉ちゃん、もう寝なよぉ」
「レオン君、まだまだコップにキャロットジュースが残ってるわよ!」
「・・・だから五杯目なんだって・・・」
レオンは、飲み干す側から補充しようとコップを奪い取る新聞記者から、今度こそ空にしたコップを死守しようと掌でその口を押さえたまま抗議する。
そんな遣り取りを横目に、ノエルは言う。
「それに新聞記者もいますからね。いわゆる文化系ってやつですか、皆」
「こんなんで本当に十賢者に対抗できるんだか・・・」
いつでもどこでものんびりとした雰囲気の崩れないノエルに、一抹の不安を感じなんぞして。自分も『学者』として例外ではない事を思い出す。
「文化系に倒される十賢者というのも、なかなか面白いですよ?」
「文化系に救われる宇宙ってのもなあ」
「あ、でも体育系に救われる宇宙もそれはそれで変かもしれませんねぇ」
「そうだな」
「ちょっとエル、誰とお酒飲んでるのかしら?!」
話が果てしない方向へとずれる前に、幸いにして考古学者の弟子にして自称恋人のオペラが豊かな金髪を逆立てんばかりにしてやってきた。
「エル!・・・あら、ノエルじゃない」
「オペラ、俺が酒を飲む度にすっとんでくるのはよせ」
「あら、だって」
バーの薄暗い照明の中、オペラは誰が見ても釘付けになりそうなとびきりの流し目を送った。
「こんな所まで追いかけてきて、あなたを誰かにとられちゃったらたまらないもの」
「そんなに簡単に俺はとられやしないさ」
なあ?と隣人に同意を求めた彼であったが、返ってきた答えは「さぁ?」という何とも頼りないものであった。
「私は心配性なのよ。それに、教え子を放ったらかす先生の方が悪いんだから」
バーの外からやってきたくせに、しこたま聞こし召していたのかオペラは師に抱きついてころころと笑う。
「いやあ、あつあつですねぇ」
「・・・本当にそう見えるのか?お前には」
「もちろんですよ」
ノエルはのほほんと、まるで茶でも飲む時の様に火酒をすすった。
物事というものは見ようによって、実にどうとでもなってしまうものなのである。
Written by Masahito Ryuki
'98.12.14 Printed Out
'99.09.26 加筆訂正。
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