ON EARTH
病的なまでの白、だった壁はとうの昔に塗り替えられたのだと聞く。が、少なくとも少女がこの仰々しいまでに厳重なそっけない門を開いてもらい、招き入れられた時には既に薄青の迷路となっていた。だから少女は白が最も清潔で、施設に最も相応しいと信じられていた時代を知らない。
1
時計はごくありきたりの正午前を指している。
少女は通い慣れて久しいルート、滑らかなセラミックの質感を持ち、やや足がそれを打つ音を吸い取る床を蹴りながらこれからのことについて考えを巡らせていた。といっても本日の過ごし方を、である。午後までかかると思われた定期テストは意外に早く終了し、手持ち無沙汰になってしまったのだ。
この間手渡されたテキストの復習をするべきか、それとも帰ってしまおうか。
昼食を摂らずに帰る気にはなれなかった。
背の中程まで伸ばしたブロンドが、肩を切ってきた風に誇らしげに揺れる。
と、不意の自由時間をどの様に過ごそうかと思案していた為に速度を緩めることなく誰かにぶつかり、十二才の彼女よりも無論質量が大きい相手に大きく弾き飛ばされてしたたか背中を打ち付けた。
重要書類とおぼしき「impossible」のラベルも鮮やかなディスクがばら撒かれる。倒れた視界にたまたま映った題字は量産型生物兵器。ここでは珍しくもない文字の羅列だ。
倒れた時に頭でも打ったのか身体が動かず立ち上がれないので、彼女は仕方なくその姿勢のままじっとしていた。その間にこんな文字を見た。違法開発、ラファールシリーズ、神経Copy。
何なのだろう、これらは、と軽い疑問を抱いた。
「おい、君、大丈夫か!」
動かない彼女に動揺を隠し切れない声が掛けられる。どうやら相手は自分が突き飛ばしてしまったのだと勘違いしている様だ。いや、多分双方ともに前などろくに見てはいなかったのだ。だから派手にぶつかってしまった、それだけ。でも痛みは次第にやってきて彼女を苛み始める。
結局午後いっぱい医務室で過ごすことになりそうだな、と少し残念な気がした。
「精密検査の結果、異常は無いからとりあえず大丈夫よ」
医療ベッドの上に半ば拘束された状態の少女に医師はそう告げて寝台を覆っている透明なカバーを外してくれた。
「うまく受け身がとれていたのかしら、イリアちゃん、何か運動やってるの?」
「いえ、全然」
「そう。それじゃあ運が良かったのね。でも今日一日は安静にしていて。明後日にもう一度検査しましょう」
「わかりました」
「気を付けてね。ここでは前を向いて歩いている人が少ないから・・・もう行っていいわ」
「はい、ありがとうございました。失礼します」
やや高めのベッドから下り、靴を履いて一礼すると少女は検査室から出た。受付で診療カードを受け取ってメディカルセンターから自分用に与えられている部屋への廊下を歩く。後頭部はまだ少し鈍痛を訴えるが気にする程の事でもない。医者が平気だといえば平気なのだ、そう、深く考えないことにした。
髪の毛というのはこういう時に役に立つのだな、と思いながら今度は注意深く前を見ながら歩く。折角の時間を無駄にしてしまったが、まだ家に帰るのには早かった。忘れていた空腹が甦ってきたのでその足を食堂へ向けることにする。
食堂は中途半端な時間にもかかわらず意外にも人は多い。というか意外も何もここではそれが普通であった。
「あ、イリアちゃん。こっちこっち!」
何を食べようかと考えていると遠くの方から自分を呼ぶ声がして、見ると顔見知りの人物が手を振っていた。
「Dr.ケインズ。随分遅いお昼ですね」
「いやぁ、実験が長引いちゃってなあ。聞いたぞ、怪我したんだってな」
「大した怪我じゃないですよ。傷も無いですし」
座りなさい、と椅子を指した白衣の男性は、染めてもいないのに根元から先端までがグラデーションを描いている様な栗毛を揺らして軽快に笑った。年齢は20代半ばといった所か。彼は自分がイリアと呼ぶ少女の聡明さを宿す瞳をいつもの様に覗き込んでまた少し笑う。
「ふむ。頭を打って飛んだ所は無いみたいだ。良かった良かった」
「変なこと言わないで下さいよ、私、買ってきますから」
イリアは少し気分を害したのかふいと立ち上がってカウンターへ行ってしまった。ケインズはおや、とそれを目で追う。
「いい子なんだけどなあ、一寸気難しいのが玉に傷って、ま、仕方ないか」
少女は六年ほど前、科学者である両親に連れられてやって来た。幼い頃からの英才教育の続きとして父親が、自分達が勤務する団体の一施設を選んだのである。ここは教育機関では無論無い。だが幾ら宇宙進出を果たしたとはいえ資源の浪費が禁忌の現代で、何よりも重んじられるのは新技術であった。新しい理論・技術が莫大の利益を生む時代。そんな中で政府は、企業は、まだ若い才能を見いだすことに熱心になった。発掘した才能に投資することでそれを開花させ、利益を得る。失敗する事も多いが、成功すればその利潤は投資の何百倍にもなって返ってくるのだ。だから彼女は快くこの施設に受け入れられ、担当者がつけられて様々な教育を施されている。二年前から担当者となったのが、このケインズにほかならなかった。
実際、少女は他に収容されているどの子供たちよりも頭が良かった。水が滲み込む様に知識は吸収され、彼女の一部となっている。だが、当たり前の話なのだが一般の同年齢の者達とは圧倒的に知識量が違う為に一般人が十二才、という年齢に抱くイメージと彼女の姿は違う。無知からくる無邪気さの欠如と人生経験の浅さが、少女をやや気難しい性格に変えていた。それが、彼女と接する事の多いケインズには少し残念に思えるのである。
イリア=シルベストリ。それが将来史上最年少で連邦博士号を取得し、天才と噂されるようになる少女の名であった。
銀色のトレイを持って戻ってきたイリアはただ黙々と本日のお薦めメニューのトマトシチューを口に運んでいる。白衣に染みを付けることからここの職員達には余り歓迎されないのだが、それは彼女には関係無い事だ。ケインズは既に食べ終って食後のコーヒーをすすりながらそれを見ている。
辺りには沢山の人がいるが、皆急いでいるか一人で食べているかしてそれ程騒がしくは無く、BGMのクラシックなメロディがはっきりと聞こえる。
「今日はもう帰るの?」
「まだ、どうしようか迷ってます」
「何と迷ってるの?今日はもうプログラム無いだろう」
正直な話、イリアは特に何をしようと考えていたわけでは無かったのであるが、目の前の教官に問われて答えざるをえずに適当な言葉を舌に載せた。口に出すと意外にも自分が前々からそう考えていた様な錯覚をおぼえる。
「大した事じゃ無いんですけど調べ物をしようかどうかと、迷ってるんです。・・・ドクターは、量産型生物兵器って知ってますか?」
ケインズは面白そうな顔をして彼女の顔を見た。この教官は何にでも直ぐに興味を示す。人格の半分は好奇心で出来ているのではなかろうかとイリアは常々思っているのであるが、案の定彼女の思いつきの発言にも興味を持ったらしい。
「ああ、まあ多少はね。君がそれ関係好きだったなんて知らなかったよ。知りたい型があるんなら今度資料でも持ってこようか。友達に専攻してるのがいるから」
「あ、いえ、別にちょっと見てみたいなって思っただけだから、わざわざしてもらわなくてもいいです」
食べながらの為、ぽつりぽつりと思い出したかのように会話がされる。そのままずっと沈黙が続き、ケインズがもう今の話題は終ったのだと認識した頃、再びイリアが口を開いた。
「違法量産型生物兵器って、何ですか?」
「違法・・・・・・さぁ、僕は専門分野じゃないからよくわからないけど、多分ウィルスとかじゃないかな?いったん広まると収集つくのに時間がかかるし。あとは倫理的な問題に引っ掛かるものだろうな。
・・・どうしてそんなことを聞くの?」
「いえ、大したことじゃないんです。今日ちらっとどこかのファイルに書かれてたのを見ただけだから。ちょっと気になっただけなんです」
「そうか・・・色々な事に興味を持つのはいいことだよ、でも身体は気を付けなければね。今日一日は安静にしているように言われなかったのかい?」
「勿論言われました。でも大した事ありませんよ。それに」
スプーンが皿を引っ掻く音がいやに大きく聞こえた。
「家に帰っても誰もいないから物騒で・・・」
「ああ、そうか。誘拐事件が最近多いもんなあ。じゃあ誰かに送っていってもらうといい、僕が送っていきたいんだが、それだと少し遅くなってしまうから頼んでおくよ。それまで自分の部屋にいるかい?」
「・・・多分情報センターにいると思います」
「じゃ、2、3時間したら誰か寄越そう。ああそうだ、今日は連邦から人が来るんだ。君も会う?」
「いいです。つまらないんでしょう?」
その答にケインズは楽しそうに笑った。
「ああ。そう言うと思ったからもう断っておいたよ」
じゃあな、とここで最も親しい人が行ってしまうと途端に周りの空気が静かになった。見上げる程に背の高い後ろ姿は、彼女の知っている誰かと途中で一緒になってガラス越しの通路を遠ざかって行く。一体彼は何の実験をしていたのだろうか?意外に相手の行動を知らないことに気付いた。
さして多くはない皿の中身をすっかり空にしてから更にしばらくぼんやりと通路を通る人をただ数えていた。まばらながらも完全に流れが途切れるということは無い。
そのうちに席を立って流れの一部となる決心がついた。何故か何事においても憂鬱さが付き纏うのはぶつけた後頭部のせいなのだろうか。
2
情報管理センター。ここは誰もが必要な情報を即、引きだせるように巨大データベースと直結した端末を置いてある場所である。 IDさえ持っていれば何時でも好きな時に利用することが出来る。勿論他の場所の端末からも接続することは出来るのだが、ここには何時でも最新のハイスペックマシンが揃っているので人々は好んでここを利用する。
だが、入室してみると意外に奥の方はすいている。イリアはスペースの一番隅を選んで自らのIDを打ち込んだ。ACCEPTの文字が点滅し、見慣れた接続の手順が今日も繰り返される。
「さて、と・・・」
何処に接続しますかと親切に聞いてくるマシンを前にイリアは暫し思案した。今日は特に用事という用事は無いのだ。まあ、気楽に行ってみよう。面白い事が見つかれば次の研究課題にすればいい。
検索《量産型生物兵器》
手始めに、まずそう打ち込んでみた。
何気なく始めた事でも、始めてしまえば意外に熱中してしまうものである。生物兵器に関する資料を読めば読む程、あの時に見たディスクの内容が知りたくなってきた。あの時に見たラベルを思い出しながら、何処から来た情報かを推測する。
多分、わざわざディスクに入れてあるということは大切なものであるのだろう。データベースで簡単に探し出せるものではない。そこで、ふと思いついてキーを叩き、管理センターの深層部に潜り込んでみることにした。れっきとした犯罪行為であるが、あまり罪の概念というものは無い。ドアを開ける様にプロテクトを破ってなんなく侵入を果たす。実は以前にも数回やったことがあったのだ。
機密が画面上に無造作に並べられる。情報管理は難しい、一度暴れれば後はこれほどまでに無防備なのだから。ここでもう一度検索をして、彼女は該当する書類を発見した。Copy不可なので素早く目を走らせて内容を読み取ろうとする。
「こんな所で侵入とは、感心しないな」
不意に耳の後ろで囁かれて、心臓が飛び出るほどにびっくりした。だが、一瞬で接続を切断して画面に表示されていたデータも全て消去するあたりが手慣れている。凍りついた表情でゆっくりと振り向くと、そこには見慣れない顔があった。誰だろう、そう思って警戒しながら凝視する。
ややきつい感じのする男性だ。値踏みする様な視線を受けて不快になり、こちらも負けじと眦をあげて見つめ返すと男性の着用している制服の具合からどうやら地球連邦に所属する軍人らしい事が判った。深い藍の目が冷酷な印象を与えて背筋が寒くなった。
「君が秀才と名高い子か。確かに、その噂は本当の様だ。この事は、他の誰かも知ってるのかな?」
声のトーンが妙に低い。何故なのかと不思議に思ったが、直ぐにわかった。他の人に聞こえないようにしてくれているのだ。自分を何処かに突き出そうという事ではないらしいと判断したので、イリアは正直に答えることにした。
「いいえ、誰も知らないと思います」
「アイルも」
「多分・・・ドクターを知っていらっしゃるんですか?」
よく見てみると確かに年が近いようだ。少し癖のある藍色がかった黒髪とその瞳はイリアの問を肯定する。
「あなたは?」
「申し遅れたね。俺はロニキス・J・ケニー。今日、ここに野暮用でやってきた連邦の人間で、アイルとは友達だ。さっき彼に君を送ってくれないかと頼まれてここに迎えに来たという訳さ」
そう名乗るといきなり彼は破顔して宜しく、と屈託なく手を差し出したので、その豹変ぶりに面食らいながらも座ったまま軽く握り返す。自分はからかわれたのだろうか?
「連邦・・・軍人さんですか?」
「ああ、少佐をやっている。軍人と言っても惑星捜査官なんだが、まあ、似たようなものかな」
「そういえばドクターがそんな事を言ってました。連邦から人が来るって」
「彼から、君はつまらないから来なかったんだって聞いたよ。実に賢明な判断だ。・・・それにしても、侵入してまで一体何を調べていたんだい?まさか産業スパイじゃあなだろうね」
「違います!」
真面目な顔をして言うので本気なのか冗談なのか判断がつかず、思わず否定してしまったが、彼はやはり真面目な顔をしてこう続ける。冗談だよ、と。
「だが探求心旺盛なのはいいが、これは犯罪だ。わかっているのか?」
「・・・・・・」
「・・・次は見つからないように慎重にやるんだぞ」
怒られるのかと思って身構えていた彼女が、え?と拍子抜けするのを知ってか知らずかさ、行こうと少佐が肩を叩いたので状況がよく呑み込めないままに後に続いた。
どうやらこのロニキスという軍人、彼女の持つ軍人というイメージとは随分と掛け離れた人物らしい。真面目なのかとぼけているのかよく解らないというのが率直な感想だった。本当に軍人なのだろうか、と人生経験が浅く、軍の人間などに知り合いのいるはずもない彼女がそう疑問を抱くのはむしろ当然の事である。ドクターも妙な友達を持っているらしい。
「すいません、ケニー少佐。ちょっと荷物取りに行ってもいいですか?」
「ああ、いいよ。ついでにアイルに俺が誘拐魔じゃあないって事を証明してもらわないとな」
みんな見透かされているようだ、とイリアはどきっとする。
この目の前の軍人がケインズの友人の名を騙るものでないという保証は何処にも無いのだ。イリアは常々周りの人々から、知らない人間には絶対についていくなと耳にたこが出来るほど言われている。どうして自分ばかりそう言われるのかがいまいち解らなかったが、彼女は自然に見知らぬ人間に対して大きな警戒心を持つようになっていた。だから、少佐が本当に安全な人間であるか誰かに確認する口実としてそんなことを言ったのだ。
しかし少佐は特に気分を害した様には見えなかった。
3
それから十日程が過ぎた。
少佐は何の用事があるのかわからないが、二、三日に一回はここを訪れている。そしてそんな日は彼に家まで送ってもらうのがいつの間にか習慣となっていた。
ようこそダストン社へ。鮮やかなカラープリントのパンフレットを読みながら、イリアは今日もデイパックを片手に駐車場でロニキスの事を待っていた。夜もすっかり更けて、最小限の光源のみのここは他に人気も無く深閑としている。直ぐに追いつくから先に行っていてくれというので一足先に彼の車の前に立っていた彼女はパン、と手の中のパンフレットを弾いた。内容は訪問者向けの簡単な経営紹介、製薬や農作物の品種改良を行っている会社だ。かなりの資本力を持っているにもかかわらず、意外に新しい。
侵入を発見された後、彼女は侵入を行っていない。だが、あの時掠め見た文字列の中にこの会社名を見たのだった。そこで施設によく送り付けられてくるDMを入手して読んでみたのだが。
やはり、何が解るものでもない。興味本位で首を突っ込むのはもうやめようと、そう思ってそれをしまった。いずれにしてもあのディスクの内容が何であろうが彼女に関係のあることではないのだから。
足音が反響して近づいてきた。しばらく待たされたが、ようやく少佐が来たようだ。
だが、それを待ちながらふと音が複数なのに気付く。そして車の起動音。どうやら人違いらしい。
あれ?変だ。直ぐそこのエレベーターポットの昇降音も、階段を降りてくるばらけた足音もしなかった・・・駐車場への出入り口はポットとその隣の非常階段しか無いのに・・・!
狭い部屋での長時間にわたるミーティングはひどく疲れる。ロニキスは、本日の成果を収めたディスクをホルダーにしまい、駐車場へ向かおうとエレベーターポットの前に立っていた。今の時間、ここを利用する人間は殆どいない為、一人で到着したポットの上に立った。彼のここでの仕事はもうあまり残っていない。明日にでも地球を発つことが出来るだろう。
久々に友人と会うことが出来たが、ここを出る時にはやはり一声かけておいた方がよいだろうか。それと、あの少女に。
自分の事をまっすぐに見上げてくるきついとも言える視線。ちょっとした合間の会話の的確さ。将来、どの様に成長するのかが非常に興味深い、明晰な頭脳の持ち主だ。
連邦に入ったならば必ずや優秀な士官になるだろうな、と考えながら彼はイリアが冷酷そうだと評したあの無表情さでポットが到着の合図を知らせるのを待っていた。
嫌な予感がして咄嗟にポットへと駆け寄る。足音がそれに反応して乱れ、急に大きくなった。予感は的中した様だ。必死で呼び出しボタンを連打してもポットは中々来そうにない。各階を規則正しく止まりながら緩慢に下りてくるそれを待っている暇は、無かった。
非常階段を駆け上がる。地下深いここから人のいるフロアまでどれだけの距離があるのか知らなかったが、とにかくここにいる訳にはいかないのだ。恐怖で足が思うように動かなくて何度もよろめき、速く走れない。そして向こうは無言のままで、直ぐに追いついた。幾らも上らないうちに髪を掴まれて思い切り引っ張られる。あまりの痛さに階段から転げ落ちそうになって仕方なく動きを止めた所を直ぐに羽交い締めにされた。幾ら暴れても彼女の力などたかが知れているので全く役に立たない。首を捻ってせめて自分を捕まえた相手を見ようとしても目深に被った帽子が邪魔をして表情は伺い知れなかった。
そのまま階段を引きずり下ろされ駐車場へ戻る。更に幾人かの男達がわらわらと寄って来て彼女の手に拘束具を嵌め、猿轡をかまそうとした。イリアはありったけの悲鳴をあげて最後の抵抗を試みるが、直ぐに腹部をに一発見舞われて息を詰まらせた。痛くて涙が滲み、胃液が込み上げて喉を焼いた。それでも咳き込みながら、その音が誰かに聞こえるようにと願う。
これが、最近騒がれていた連続誘拐魔なのか。多分、何度か一人で少佐を待っていたのを知られていたのだ。足にも何か付けられそうになったので相手の足を踏みつけてやるが、また二三発殴られて全身に力が入らなくなった。少佐はまだ来ない。祈る様な気持ちでポットの電光表示を見ると、一台がこちらへ降りてきていた。幸い男達は気付いていないらしく歩調を変えずにイリアの待っていた所からやや離れた銀灰色の車へ向かっている。中にはやはり薄いグリーンの帽子を被った男が一人。
少しでも時間を稼がなくてはいけない、イリアは力の入らない身体を鞭打って暴れる。やろうと思えば結構動くものだ。ぐったりした様子から、急に暴れだした彼女に対応しきれなかったのか腕の中から擦り抜けてセラミック床の上に倒れ込んだ。しかし両手両足を拘束されているのでそれ以上どうすることも出来ない。また殴られるかと身構えた彼女だったが、「あまり傷付けるなという命令だ」リーダー格らしいのが今度は蹴りを入れようとしていた男を止めた。男はあからさまに舌打ちをしてそれが本意でないことを示したがしぶしぶ従い、彼女を立たせようとして・・・。
「動くな!!」
鋭い声が飛んで男が凍りついた。
「動けば射つ!」
何事かと無理に身体を起こすと他の男達も動きを止め、声の方向を見ていた。動揺が広がったのがわかった。期待を込めてその先を目で辿ろうとするが、もう彼女にはそれだけの体力が残っていない。再び床の冷たさを感じながらせめて顔だけを向ける。
見慣れた軍靴が遥かにあった。
「少佐・・・・・・」
消え入りそうな声は勿論届いていない。片手には一度も見たことの無い位相光線銃の、銀の銃身が握られていた。
「両手を頭の上で組んで壁に並べ。・・・今すぐにだっ!」
諦めたのか男達はゆっくりと、実にゆっくりとイリアから離れ、壁面に近づく。ロニキスは位相光線銃の構えを崩さないまま、方向だけをその動きに合わせて滑らせる。
光が疾った。
「ぐっ?!」
ロニキスは激痛に襲われた肩口を見もせずに、瞬間引き金を引いた。悲鳴を上げるまもなく男が車体の中で動かなくなった。どうやら銃の照射レベルは最小らしい。だが彼の注意が逸れた事で他の男達が武器を取り出し乱射しする。
こちらは熱線銃だ。一瞬前までロニキスのいた場所を赤い光が薙ぎ、形勢は一気に逆転してしまったかに見えた。男達は異様な程素早い動きで車体の影に身を隠して応戦を始める。
行儀良く並べられた車の表面に次々と焼け焦げが付けられ、塗料の焼ける嫌な臭いが立ち上る。状況は三対一とロニキスにやや分が悪い。しかし彼は果敢にも時折位相光線銃を飛ばしながら僅かな隙をついて走り出、転々と位置を変えてこちらに近づこうと試みる。が、熱線銃ブラスターの乱射に閉口し、中々反撃のチャンスを掴めない。
男達の方も正確な射撃の前に、路上に横たわっているイリアを連れて逃げる事が出来ないようであったのが幸いである。
「くそっ!」
声を荒らげて随分近くなった少佐が一瞬顔を出し引き金を引いた。彼のこんなに厳しい表情を初めて見た。ああ、やっぱり彼は軍人なのだと何処かで感心した。上手く命中したのか、苦痛の絞りだす様な呻きが大きく反響した。そして倒れる音。
五感が痛みで希薄な中で、薄暗い空中で繰り広げられる光の応酬はひどく非現実的で綺麗だった。光の先に人の命がかかっていることが信じられない程に。イリアはただじっとしてそれを低い位置から見つめていた・・・・・・。
帽子達が唐突に去ることで戦闘は終った。
何が合図になったのかは解らないがロニキスを攻撃していた二人が急に残りの一人が乗っていた車に駆け込んで猛スピードで走り出し、あっという間に消え失せてしまったのだ。遠ざかるエンジン音を押しやる様に戻ってきた静寂。残ったのは熱線銃が焼いた壁と車と倒れた男だけだった。
「大丈夫かっっ!?」
駆け寄って抱き起こされた時に激痛が走ったが、それが表情に出ない程嬉しかった。
「多分、平気です・・・」
「それの何処が平気なんだ!何をされた!?」
「何回か殴られて・・・でも、それだけ、です」
「解った、もう喋らなくていい。立てるか?」
手足を自由にしてもらっても神経が麻痺している様で全く立ち上がる事が出来ない。首を振ってその旨を伝える。
「待ってろ、直ぐに人を呼んでくるから・・・」
「一人にしないで・・・下さい」
ここに取り残されるのは嫌だった。何時奴等が戻ってこないとも限らなくて、一人でいるのは怖かった。
「だが」
「お願い、します」
「・・・首や背中は平気なのか?」
頷くと、少佐は暫く迷った様だったが、解った、と注意深く彼女のことを抱き上げた。ああ、置いていかれずにすむ、と思った途端、意識が闇に沈んだ。
4
事件は直ちに警察に通報され、イリアはメディカルセンターへ運ばれた。
「ロニキス、お前がついていながらどうしてこんな事になったんだ!」
医療ベッドの前でカッとなったケインズが掴みかかるのをロニキスは無抵抗に、なすがままになっている。襟首はぎりぎりと締め上げられんばかりだ。
「・・・済まない」
「済まないですむ事かっ!」
「Dr.ケインズ、やめて下さい!」
医師に止められ、やっとロニキスは開放された。ただ黙って立ち尽くしていると、ケインズの方もやっと落ち着いてきた様だ。荒らげた息が次第に収まり、頭から血が引いていくのと同時に冷静な判断力が戻ってきた。そしてついさっきまで目の前の友人を乱暴に扱っていた両手を信じられないものの様に見る。
「・・・いや、謝るのは俺の方だ・・・セキュリティに問題があったんだ・・・それなのに、イリアを助けたお前に当たり散らして・・・!」
「いいんだ、アイル。彼女をあんな所で一人にした俺が悪かったんだから。それに今は責任の追及をしている場合じゃない」
「・・・・・・ああ、そうだな。」
「誘拐犯に心当たりはあるのか?」
脱力してケインズが傍に置いてあった椅子に座り込み、組んだ手のひらを額に押し当てる。
「無い。ただお前が知っているかどうかは知らないが、ここ半年で誘拐事件が急増しているからな。関連はしているかもしれん」
「子供のか?」
「ああ、そうだ。それも大抵が特殊教育を受けていたり飛び級を経験している、いわゆる頭のいいとされる子供達だ。始めは身代金目的かと思われていたんだが、犯人からの要求は無くて未だに行方不明だ。四人程いたな」
「随分よく知っているな」
「そうか?ケニヤン光学研究所、ホルキィ工業大学にセントポール科学技術研究所と立て続けに事件が起これば嫌でもこっちの耳に入るさ。うちも含めて個人データが流出したらしいからな」
「データが?」
「勿論公にはなっていないが、専らの噂さ。流したか取られたか知らんが、個人情報の管理なんて意外にずさんなものだぜ。それよりお前、見たんだろ、誘拐犯」
「見るどころじゃなかったさ。何とかかすり傷で済んだが下手をしたら死んでたな」
本人がかすり傷、と見せた場所は包帯で厳重に捲いてあった。その下には人工皮膚が移植されているのだろう。とてもかすり傷どころではない。
「しかし、何かおかしい。確かにここに来た時にそういう噂は聞いた。だがそこまで特殊だとは・・・そんな誘拐事件の報告なんか正式には全く受けてないぞ」
「・・・どういう事だ?」
「そいつは十中八九、生体部品目的の組織的犯行だ。そういう事件は連邦に報告するように命令が行ってる筈なんだがな・・・嫌な感じだ」
「軍人の直感か」
ロニキスは肩を竦めて答えた。
「組織的な犯行というのは一目瞭然さ。見ただろ、俺が気絶させた奴が仲間に殺されていたのを。頭部を打ち抜かれてな。多分残りが逃げた時に、証拠を隠滅したんだろう。相手がそれだけ真剣だという明らかな証拠だよ。・・・さて、そろそろ警察が来る頃だ、行こう」
誘拐事件再び、という事で誘拐犯を見たロニキスはかなり長い間取り調べを受けた。事件の発生時刻、犯人の数、武器の種類、車の色、あらゆることを根掘り葉掘り問いただされていい加減嫌になった頃にやっと休憩の時間が設けられる。ケインズの方もイリアに関して様々な質問に答え続け、換気してあるにもかかわらず息苦しい雰囲気にげっそりとしていた。「昨日徹夜をしたもんでね」とは本人の談である。
しかし十分もしないうちに白い制服に身を包んだ刑事が一枚のディスクを片手にとてもゆったりとは言えない雰囲気で戻って来た。
「休憩中済まないがこれを見てくれ。警備会社の防犯カメラの映像だ」
急遽用意された部屋のスクリーンに駐車場の光景が映し出される。彼の車も隅の方に入っている。つまりはイリアの立っていた場所ということだ。右下に白く撮影時刻が記録されている。
だが一体どうしたということなのだろう。表示がが犯行時刻をとうに過ぎても映像には何の変化も見られないではないか。駐車場は静止画像の様な状況を保ち続け、そして唐突に切れた。
「これは・・・映像がすり替えられている?」
「その通りだ。そして犯行時刻が過ぎたと思われる時刻をやや過ぎた所で回線が強制的に遮断されているが、これはほぼ我々が警備会社に映像の提供を求めた時刻と一致する。恐らく一連の誘拐事件と同一犯だろう」
髭面の刑事は苦虫を噛み潰した表情でこれが奴等の手口だ、と吐き捨てた。
防犯カメラの監視人を眠らせカメラをあらぬ方向へ向ける、オンラインの警備会社の回線に侵入し映像をすり替えるといった細工によって捜査は困難を極めているのだという。そして施設、警備会社共に内通者と思われる人物は見当たらない。
「これ・・が出来る人間で何か心当たりはないか?」
問われてケインズは暫し思案したが首を振った。
「いや、技術的には十分可能だろうが・・・向こうの会社に通じていないと無理です。俺は知らない」
刑事はやはり、と半ば諦めの表情を見せる。
「では犯人の目星は全くついていないと?」
「残念だがそう言わざるを得ない」
「犯行は半年以上も続いているのに、ですか?」
ケインズが半ば呆れ顔で言うのにもきまり悪く首を縦に振る刑事は言い訳がましくぼそぼそと言う。
「・・・無論我々も遊んでいるわけではないが、何分証拠が無いから現時点では何とも言えない。少佐が射殺した犯人を鑑識が調べているが、ひょっとしたら何かわかるかもしれないな」
「呆れた話だ。それは本当の話なんですか」
ロニキスは言葉通り心底呆れ返って相手を見た。もしそれが真実なら警察も堕ちたものである。
結局二人が完全に解放されたのは日付が変わってからの事だった。販売機でコーヒーを買い求めてあおったが、二人とも自宅へ戻る気力も無く、仮眠室に泊まっていこうかと廊下に据え付けられたベンチで相談しながら立ち上がる気配がない。
さっきまではしきりに行き来していた警察関係者もすっかりいなくなっていた。
ぼんやりとしながらケインズはまた一口コーヒーを飲む。ほろ苦い液体が喉を滑り落ちて神経を少し覚醒させる。
「警察がここまで無能だとは思わなかった・・・とは言わないが絶対何か隠してるな」
「多分、表沙汰になったらまずいことなんだろう」
「とにかくこれで役に立たないって事は解ったが、これからどうすればいいのかな。イリアを、いや、ここで教育している全ての子供を常に見ていることなんて実質的に不可能だ。ま、それに頭を悩ませるのは運営委員会だから俺には関係ないが・・・イリアに護身術でも習わせるか」
溜め息。ロニキスも相づちを打つ。
「いいんじゃないか?最終的に自分の身を守るのは自分だ・・・それに、たとえそれが実際には役に立たないにしても、彼女の心的外傷を癒すのには丁度いいだろう。ひどく怯えていたからな」
「そうか・・・・・・」
「アイル、不思議に思っていたんだが、彼女の両親は来ないのか?」
「多分来ないだろう。というよりまだ知らないと思う」
意外な顔をしたロニキスにケインズは説明する。
イリアの両親は現在、他星系で発掘された遺跡を調査中であり、余程の事が無い限り戻ってくるのは難しいのだ。そしてイリアの世話は長期契約の家政婦が行っており、他の同居人はいない。すなわち、今彼女を見舞いに来る人間はいないのである。
「可哀想な子さ」
「そうか・・・お前が目をかける気持ちがわかるよ、ケインズ」
少々大きい足音が近づいてきた。見ると事情聴取を担当していた刑事である。恰幅のいい身体をやや前かがみにしながら歩いてくる。どうやら彼も飲み物を買いに来たらしい。こちらに気付くと少し身体を傾けた。会釈のつもりらしい。
「隣、いいですかな?」
「はい、どうぞ」
席を空けるとどうも、とどっかりとややゆったりとしたベンチの三分の一程を占めて深々と溜め息をつく。あまりに疲れた様子なので少し気の毒になった。
「刑事さんも大変ですね」
「いやいや。連邦の方が人使いは荒いと聞きますよ」
疲れているのと、話題が当たり障りのない世間話なのとで感情も反して剣呑な雰囲気とは縁遠い。聞けば、彼はまだ仕事が残っているという。黙って空中を見上げていたケインズが突然真剣な顔で問い掛けた。
「警察は、実は犯人を知ってるんじゃないですか?」
「な、何故そう思うんだ」
刑事は明らかに狼狽した。
「六ヶ月もあるのに犯人の目星もつかないなんておかしいですからね。想像力があれば解ることですよ」
「俺も是非教えてもらいたいな」
二人の目にやっと剣呑な光が灯る。そっちが警察なら、こちらは天下の連邦捜査官と現代技術を担う科学者だ。欲しい情報位、その気になれば直ぐに手に入るのだぞ、という激しい視線だ。
それに観念したのか、ここからはオフレコだが、と刑事は溜め息をついた。
5
もしも彼等が何も知らない民間人であったならば、刑事もそんな事を教えなかっただろう。
「よくある話、だな」
「ふむ。大方そんな所だと思ったよ。しかも予想通りだ」
再び二人きりになって、ケインズはすっかり冷めてしまったコーヒーをすすった。
「予想通りどころか、お前の仕事にドンピシャじゃないか、ダストン、コロダヴル、マーフェット・・・全部他星系に本社を持ってる企業だ。それも裏で生物兵器を製造してる」
「だから中々違法生物兵器の検挙が難しいんだ。その上、裏と言っても兵器の製造自体は違法ではないからな」
「ようは人間の遺伝情報を使ってたらいけないんだろう?」
「それだけじゃない、生体部品もだ。眼球や神経系統はよくコピーされる」
「一から作るのは費用がかかるからか」
この分野に関してはロニキスの方が知識量が上の様だ。問われた事にすらすらと答える。
「ああ。この三社がそのコピーを用いた兵器を作っているのはまず間違いないんだが、証拠が無い。それに武器は儲かるんで他星系だと国ぐるみで庇おうとするから調査もしにくいしな・・・だからあれを持ち込んで分析にかけて貰ってるんだ。何か証拠でも見つかればそこから辿っていける」
「しかし何でまた地球でやるかねえ。子供の誘拐なんてやれば直ぐに足がつきそうなもんなのに・・・幾ら上層部に圧力かけられるからって。ロニキス、連邦は知ってんのか?」
「ここまで腐敗が進んでるとは思ってないだろう。一連の誘拐事件の未報告にも全く気付いていなかった、というのが現実だからな。第一、元々連邦は対外的な機関だからそこまで手がまわらん。特に最近はレゾニアのトップが代わってカリカリしてるんだ」
「相手が政府だと迂闊に告発も出来ないな」
ケインズはすっかり空になったカップを握り潰す。
「嫌な世の中だ。子供を材料に兵器を造る奴等とそれを黙認する奴等。皆欲得ずくで動いてる」
「まあなあ、俺は科学的な事はよく解らんが子供の脳は凄くいいらしいしな」
「何が」
「ケインズ、お前ドクターやってるのに知らないのか?性能がだよ。最近出回ってる生物兵器の作り方教えてやろうか。子供の脳に出来るだけ情報を覚え込ませた後に人格部分を破壊して、入れ換えて、それを大量Copyするんだ。機械じゃとても真似出来ない判断力を持たせる事が出来る。神経ニューロンネットワークの発達は子供が一番だからな、流し込むんだ、知識を」
「生憎専門外だ。・・・しかしとんでもないな」
「全くだ。・・・一歩間違えればイリアもそうなってた」
「あの子はいい子だよ、ケインズ。将来必ず出世するぞ。お前より偉くなるだろうな」
「当たり前だ。才能のかたまりだから俺が教えてるんだぞ」
ケインズがはじめて笑った。いつもの軽快な笑いだ。
「そんな下らない事で殺されてたまるか」
翌日には警察は引き上げて行った。捜査はこれからも全力を尽くすと、口だけはそういいながら。しかし実際に誘拐されたわけではなし、事件は迷宮入りという事になるのだろう。
イリアの怪我自体はそれ程深刻なものでなく、既に意識も戻っていた。一人でいるということに酷く怯えるので現在ケインズが付きっ切りで見ている状態だ。その日の夜、連邦の方での雑務を終えたロニキスは、再び施設を訪れた。彼はメディカルセンターには立ち寄らずに本来自分の用事があるべき場所へ足を運ぶ。今日限り、もう来ることも無い場所だ。
今の時分に残っているのは長引く実験を抱えているか、論文の仕上げをしているか、大抵が部屋に缶詰め状態になっている者達ばかりなので、廊下に人は殆ど見られない。
だが、
「少佐」
振り向くと、張りつめた硬質の声を発したのは少女だった。照明の作り出した薄青い闇に溶け込んでほの明るく金の髪が浮かび上がる。ロニキスは驚いて問い掛けた。
「どうしたんだ。メディカルセンターにいたんじゃなかったのか?」
何故、誰もこの子に気付かなかったのか。服はきのみ着のまま、足には何も履いておらず、だからこそ足音に気付かなかったのであろうが、ベッドからそのまま抜け出してきたという出で立ちで佇んでいた。彼女が動かないのでロニキスがそちらへと向かう。彼の身体は簡単に闇に沈んだ。
「さ、帰ろう。そんな格好では風邪をひく」
全館空調が完備されているとはいえ、辺りにはじんわりと滲み入る様な冷気が漂っている。上着を脱いで着せかけるとイリアはかがんでも遥かに高い彼のことを見上げた。
「ケニー少佐、ここにあるんでしょう?」
その唐突な物言いにやや面食らっているともう一度繰り返す。
「ここにあるんでしょう?少佐のお仕事」
目の前の気密式扉を指してそう問うイリアは、いままでの彼女に知らせなかった筈の経緯を全て知っている様だった。もしかしたら枕元でケインズとの会話を聞いていたのかもしれない。この子に隠し事をする必要は無い。そう判断したロニキスは優しく答えた。
「ああそうだ。この先に何があるのか、知っているのか?」
「人体の神経系統をコピーした、生物兵器・・・」
「そう、最近、最も出回っている型だ。ここで三体、分析にかけている」
「調べてどうするの?」
「製作元を示す手がかりを見つけるんだ。そうして摘発して、潰す」
イリアは止めていた息をほぅ、とはき出した。
「私を攫おうとした人達を?」
「そうかもしれないし、そうではないかもしれない。・・・見るかい?」
イリアはこっくりと頷いた。
頷いた途端ふわりとすくい上げられて、その行動に抗議する間も無くロニキスはIDカードを通し、厳重な扉のロックを解除した。
「降ろして下さい」
「だって裸足じゃないか」
微かに身じろぎするのを軽くいなし、ロニキスは関係者以外立ち入り禁止のその奥へと進む。
むっとこもった臭いと唸り声が段々と大きくなった。広く、天井の高い部屋に積み上げられているのは多数の檻。そのうちの殆どは空だが、中には光る目をこちらに向けているものもある。
人の気配を感じてもうずくまった影は唸り声一つあげず、ただ黄金色の両の瞳だけをこちらに向けた。全身は闇に沈んでいてよくわからない。隣り合せのこの二つの檻だけが、他とは明らかに一線を画して質の違うものを内包していた。
二対の黄金が向かい合う。イリアの瞳はそれに吸い込まれた。
「とある戦場で捕獲されてから、こうしてずっと逃げ出すチャンスを窺っている。このシリーズは恐ろしい程知能が高い。だから、こうして手を入れても」
とロニキスが左手一本でイリアを支え、一方の腕を差し入れる。息を呑んで見守ったが、それは一寸注意を払っただけで直ぐにそれを無視した。
「ここで人を傷つけることがどれだけ自分にとって不利なのかを認識している。凄いだろう?」
再び二本の腕で抱かれてしっかりとした安定を得る。イリアは頷いた。
「名前は?」
「あるかどうかは知らないが、ここではフィオレと呼んでいる。向こうのはスミレ」
可愛らしすぎる名だと彼は苦笑し、何人殺したのか知れん、と付け加えた。
「彼等はラフォードという人間の脳を基礎として造られている、通称ラフォード・シリーズ。ここ何年かの主流メジャーだが、これでも裏世界では状況判断が甘いと不満が出始めてるらしい。・・・もしあの時に君が攫われていたら五年先位にはイリア・シリーズが誕生していたかもな」
イリアを部屋のあちこちに積んであるコンテナの一つに座らせると、彼は檻の横に置いてある観察記録を読み、一人で何やら納得をして取り出した手帳にさらさらとメモを取っていく。
「・・・連邦って、戦争ばかりしてるのかと思ってた」
「戦いだけじゃ統治は出来ない。俺みたいな仕事をやってる人間は、確かに人目には尽きにくいが案外大勢いるのさ」
「大変?」
「勿論。どんな仕事もそれなりに苦労があるから・・・ま、俺もいずれは戦艦にでも乗りたいけどなぁ」
「戦争したいの?」
「違う。子供の頃からの憧れだったからさ。・・・君はあるかい?」
「イリアでいいですよ」
「・・・それじゃ、イリアの将来の夢は?」
「わからない、そんな事」
「なら、何の為に勉強する?」
「考えたことなんてないから。昔からそうだったし」
『フィオレ』をじっと見つめたままでイリアは小さく言う。学ぶ目的を知らない今という時間を生きるという事は、彼女にとって檻に閉じ込められている事とさして変わらないのではないか・・・まさかそんなことは、と解ってはいてもそんな疑問が頭を掠める程に彼女はひどく老いて見えた。
「そうだよな。俺もイリア位の頃にそんな事考えたこともなかった・・・ま、あまり早いうちに思い定める必要も無いのか。変な事を聞いたね」
「でも・・・でも、宇宙に行ってみたい。色んな所を見てみたい」
初めて垣間見せた好奇心の横溢する瞳。単に夢見るのとは違う、彼女にはそれを実現する力が十分にあるのだから。
「イリアなら行けるさ。それに何だって出来る」
「そうかな?」
「あぁ、そうさ。何たって天下のDr.ケインズのお墨付きなんだから。気が向いたら連邦にも来てくれないか?君みたいな有能な人材は幾らいても足りないからね」
イリアはちょっと思案する仕草をしてから、「考えときます」と気取って答え、それから小さな笑い声をたてた。つられてロニキスも忍び笑いを洩らす。
「少佐、約束して?」
「何を?」
「絶対、あいつらを捕まえるって。そうじゃないと私、怖くて一人じゃ何処へも行けないから」
「・・・ああ、約束しよう。元から見逃すつもりなどさらさら無かったがな。絶対に潰してやる。楽しみにしてろよ?」
少女が身震いしたのを感じ、ロニキスは自分の身にも寒さを覚える。
「そろそろ戻ろう、抜け出してきたのがばれたらアイルに怒られる」
イリアもそれに異論は無かった。
そしてロニキスが気密扉を開け、そして閉めようとした時、それが咆哮した。フィオレだ、イリアは直感した。咆哮は何度も、何度も。唱和するかの如くもう一体も声を上げる。二つの声は互いに絡み合って一つの大きな生き物となり、部屋中に充ち満ちた。背筋がぞっとする程の威圧感に、他の動物達が騒ぎだす。
「なんだ、これは・・・・・・」
「泣いてる?」
眉をひそめてイリアは上着の袖を握り締めた。どうして・・・?
「そういえばもう一体はどうしたんですか?いないみたいですけど」
「もう、解剖されている。脳の構造を調べなくてはならないからな。そして彼等もいずれそうなる運命だ・・・ああ、ちょうど今、日付が変わっている・・・ひょっとしたら彼等は自分たちが殺される日が近づいたことを、知っているのかもしれない」
「可哀想・・・でも、仕方のない事なんですよね」
イリアは少し泣きそうな目を伏せて首を振った。理屈だけなら解りすぎる程、解っているのだ。
追い縋る泣き声を扉で締め出して足早にメディカルセンターへ戻ると、イリアのベッドの横では毛布を被ったケインズが机の上に突っ伏して眠っていた。
「こんな所で眠って風邪を引くじゃないか、全く。イリアが出ていった時からここにいたのか?」
「はい。とりあえず毛布だけ掛けといたんですけど」
「大事にされてるんだな、イリアは」
「?」
「アイルの事をどう思う?」
「とてもいい人だと。私の事をとてもよく考えてくれます・・・本当に、そんなに考えてもらう価値なんてあるのか解らないのに」
「アイルはその価値をよく知ってるさ」
ここ数日結局満足に眠れなかったケインズは、実に幸せそうに眠っている。彼を起こさない様にそっとイリアをベッドに降ろして、ロニキスはそのまま引き上げることにした。
「こいつが起きたらよろしく言っておいてくれ。もう、しばらくは来ないから」
「え?」
「ちょっとした用事があってね。明日・・・いや、今日地球を発つことになったんだ。分析結果も連邦の方へ送ってもらうから」
イリアの為にもとっとと仕事をしなくちゃいけないからな、と掛け布団を整えながら言う。
ああ、そうか、と彼女は改めて目の前の軍人がついこの間出会ったばかりの人間であったことを思い出した。まるで長年の付き合いでもあるかの様な親近感を感じ始めていただけに、唐突な別れが信じられない。
しかし、それは当たり前の事なのだ。
思えば妙な人物だった彼は、ある時ふっと現れ、そして掻き消す様に日常からいなくなろうとしている。
もし、さっき自分が彼の後を追いかけていかなければ、その別れはもっと唐突なものだったのだ。
けれど、動揺を全く表に出さずに、イリアは微笑んだ。
「そうなんですか。それじゃ、気を付けて下さいね。怪我もお大事に」
「ああ。また何か縁があったら会うこともあるだろう。それまで元気でな」
ほんの少し名残惜しそうに、ロニキスは彼女が差し出した右手を握る。
そうして、彼は消えた。
「おーい、イリアちゃん、君宛に何か届いてるよ!」
食堂でお薦めメニューのパエリアの浅蜊をつっついていると、ケインズが小さな包みを手にしてこちらへ歩いてくる。
「何ですか?」
見てご覧、と送り主の名を見せられるとそこにはロニキス・J・ケニーとある。
「どっかの土産か?あんまりこういうの、まめな奴じゃないんだけどな」
あれを見た日から既に半年が経過した。あれ・・・フィオレとスミレはとうにいなくて、もはやあの事件の如何なる痕跡もこの施設内に見受けることが出来なくなっている。無論それ以降、藍の髪の軍人も見ることは無かった。一切音沙汰も無く、生きているのだろうかとケインズとの話題に上ってしまう程だったのだ。
それが、どうしてこんな時期に。
包装を外し、白い箱を開ける。
「これは・・・・・・」
イリアがそっと持ち上げたのは帽子だった。忘れもしない、あの薄いグリーンの帽子には白いカードが差し込まれている。それを読んだ彼女は思わず顔を綻ほころばせた。なになに、とケインズも横から覗き込み、ふっ、と笑う。
「中身はディスクの中に・・・って、」
「あいつが上手くやったってことだよ。このディスクかな?見てみよう」
一緒に入っていた記憶媒体を再生させると立体映像がテーブルの上に現れた。
綺麗に磨き上げられた床、装飾の施された古風な階段の手摺、壁に掲げられた銅版にはマーフェット・コーポレーションの創設以来の業績が延々と刻まれている。だが、落ち着いた背景に似合わず周囲では制服姿の人間が慌ただしく走り回り、音声は無いもののかなりのうるささが感じ取れた。
やがて両手を拘束された者達が何人かの連邦士官に囲まれて画像の右端の方から歩いてくる。
「本当だ。ケニー少佐、捕まえてくれたんですね」
薄いグリーンの帽子を誰もが目深に被っている中で、一人だけ被っていない人間を見つけてイリアは映像の記録日を見た。地球時間に直して今日の午前2時。向こうは何時ごろだったのだろう?
この映像だけからは一体そこで何が起こったのか、それ以上の事は判らなかった。だが肝心な事は伝わった。
「嬉しそうだなあ、イリアちゃん」
「当たり前ですよ。あ、もうこんな時間・・・ドクター、私、これから護身術の講習があるんで、行きますね」
「これはどうするんだい?」
「差し上げます」
「いや、差し上げますって言われてもこんな物・・・あぁ、行っちゃった。・・・・・・しかもディスクとカードはちゃんと持って行ってるし、何か雰囲気変わったな、彼女」
ぽつんと取り残された帽子を手に取り、困った様にアイル=ケインズはそれをくるくるっと回してそれから真顔で呟いた。
「ふむ。確かにこんなものずっと持っていたくはないよなぁ。ま、記念に俺がとっといてあげましょう」